我々の事業は何か? 何であるべきか? の前に、そもそも何なの組織って。

  • 2010.04.28 Wednesday
  • 15:21


さて、前回のエントリーで舞台創作にまつわる根本問題を、実演家の仕事と、マネジャーの仕事に分けて考えてみるという方針を決めた。そして、まずはマネジャーの仕事について考えてみる、という順序を決めた。

というわけで早速マネジャーの仕事について書こうと思ったのだが、今回はまだその準備で終わりそうだ。

先日このブログでも書いたとおり、近頃ドラッカーという人の書いた『マネジメント』という本を読んだ。大変面白く、大いに共感、感動しながら読んだわけなのだけれど(というよりこんな文章をそもそも書いているのはその本に触発されただけとも言えるわけなんだが)、その中で何度も執拗に繰り返される問いがあった。それが、

われわれの事業は何か? 何であるべきか?

という問いだ。
ここで言う「われわれ」というのを、ここで僕は自分の主宰する劇団である「ひょっとこ乱舞」と考えてみることにする。まず最初にこの問いに答えてみようと思う…のだが、しかしこの問題に本当に答えることができるのはもっとずっとあとになるだろう。

というのも、この問いは「最初の問い」でありながら、この質問への回答が完全になった時点では、少なくともマネジャーにまつわる「根本問題」が解決してしまうぐらいの大きな問いであるからだ。

一見、この問いに答えるのはたやすいように思える。とりあえずひょっとこ乱舞は劇団なんだから「われわれの事業」てのは当然「演劇公演を行うこと」じゃないの? と。

そうではない。それでは単に「劇団」という言葉に定義を与えたにすぎない。問われているのはその先だ。つまりこの問いは、

「演劇公演を行う集団が劇団である。では、われわれの劇団の事業は何か? 何であるべきか?」

と読まねばならない。これはわれわれのオリジナリティと存在意義に関わる問いなのだ。

この問いに答える前に、下準備をいろいろとしなければいけない。よって次回以降、僕はドラッカーの方法にしたがって、我々の顧客とは誰か? という問いに答えることからその準備を始めるだろう。

今回はさらにそれに先だって、まずは「最初の問い」が成立することの意味について考えてみたいと思う(やれやれ長い話だ…)。

この「最初の問い」は組織の目的にまつわる問いであるといってよい。すなわち、

あなたがたの集団は何をするために組織されているのか?

と。
しかし待って欲しい。そもそも集団には何らかの目的がなければいけないのか? もちろんそんなことはないのである。ここで僕は複数の人間が集まって作る「集団」というものを、「目的を持つ/持たない」という視点から二つに分割しよう。これ以後、僕は目的をもった集団に対してのみ「組織」という言葉を使い、目的のない集団は単に集団と呼ぶ。

集団にとって目的とは何であるか? 僕は目的は集団にとっても個人にとってもとんでもない劇薬であるように感じる。そもそも、集団にも個人にも目的などというものはないのが当たり前だからだ。
目的を定めることによって集団にとって有益なものとそうでないものを峻別する基準が生まれ、それが集団を磨き上げもするし、排他的な潔癖性を生じさせたりもする。

目的について別の視点から考えるために、たとえば先ほどの「最初の問い」を、個人に向けてみたらどうなるか考えてみよう。

「さて広田君、君の人生における事業は何か? 何であるべきか?」

もちろんこの問いに答えを返すことはできる。しかしそれは実は人生にとっての根本的な問いでは、ない。人間は本人の選択として何かのため、と目的を定めて生きることも可能ではあるが、本質的には無目的な存在としてこの世に生を受ける。ただ単に、ルールも知らず、目的もなく、いきなりこの世に放り出されて、生きることとなる。

芥川龍之介によれば、人生はルールもわからずいきなり参加させられた徒競走のようなもので、いつの間にか我々はトラックを走らされていた、という。さすが小説家はうまいことを言う。

確かに人間は、時に何らかの目的を人生に見出したりもするが、そんなものなくたって生きていけることは明らかだ。ある時期に野球のために生きると言っていた人間が、相撲取りになり、タレントになり、参議院議員になったとしても、何ら不自然さはない。波乱万丈な人生だねえ、で済む。それが適応力だ。



けれど組織は違う。



すくなくとも何らかの成果を上げようとする組織ならば何のために、という目的を失ってしまえばその存在を維持することは困難だ。というより、特別な事情でもない限り目的を失った組織は存在し続ける必要がない。オリンピック準備委員会はオリンピックが終われば解散されるべきなのだ。

(原理的には、目的を失った「組織」が「集団」に戻って単なるサークル的な付き合いを続けることはできる。が、それは「組織」が死んでしまったことを否定するような存続形態ではない)

読売巨人軍がある日、相撲部屋になり、また突然タレント事務所になり、さらに政党として組織改編をすること…は、まあ、不可能ではない。が、その必要性は、ない。個人の目的と組織の目的が乖離していったのであれば、その個人が組織を去ればいいだけの話である。逆に言えば、組織は個人の事情を越えた目的を持つことが出来る、ということだ。

その意味で組織には個人よりも適応力がないとも言えるだろうが、目的達成という機能においては個人よりも、また無目的な集団よりも、はるかに強力な力を持つ。


誤解のないように言っておくが目的を持たない集団が、集団として劣っているということを言いたいわけでは決してない。単に性質が違うという話だ。

たとえば家族には目的がない。が、構成メンバーにとってはその無目的性ゆえに価値が下がったりはしない。むしろだからこそ意義がある。収入が少ないからといってお父さんはお父さんの資格を失ったりはしないのだ(「夫」という地位ははく奪されるかもしれないが…)。

家族や夫婦、民族や国家というものは、基本的には、構成員に対してその能力を問わない集団である。つまり目的がない。それらの集団は無目的に、ただ単に存在し、むしろ存在するために「事業」を探す。家族はピクニックに行くために結成されるのではなく、家族を維持するためにピクニックに行くのだ。


では劇団はどうだろうか?


結論から言えば、劇団は無目的な「集団」にもなれるし、目的を持った「組織」にもなれる。最初の問いに対して劇団はこう答えることもできるのだ。

「我々の事業は一応のところ演劇公演である。が、まあそれがどんなものであっても構わない。どんな作品になっていくかはその時になればわかる。どこかを目指して活動をするわけではなく、活動することそのものが目的である」

と。この答えはある意味では完璧に正しいと僕は思う。

劇団がより質の高い公演を行うために目的を定め、すべての能力をそれにむかって注ぎ込むことも可能ではあるが、劇団が「集団」にも「組織」にもなれる以上、ただ単に存在し続けることも十分可能だからだ。仲間の集まる楽しい現場、というだけでもある人々にとってはそれは十分に有意義な場所になるだろう。

もちろん、組織が仲良し集団的な居心地の良さを備えていることは悪いことではない。が、特に良いことでもない。というより、居心地がいいかどうかは「集団」にとっての問題であって「組織」にとっての問題ではない。


僕らの劇団は大学のサークルから始まった。今では当時のメンバーはほぼ完全に姿を消してしまったが、その流れの中で僕らは集団が存在するための中心的な要素として「目的」というものを規定する機会を逃してきてしまったのかもしれない。

もう言うまでもないだろうが、僕がこれから語ろうとしているのは目的を持った集団――組織、についてであって無目的な、家族的サークル的「集団」に関する話ではない。

目的なくまったりと集団を維持していくためにはそれなりのセンスが必要だ。どうやらこの世にはそういったセンスのある人間と、そうでない人間がいるようで、間違いようもなく僕にはそれがない。
なぜと言えば、僕は「目的のない集団でまったりしたい」という意識がとても弱いらしいからだ。もし、まったりしていい時間があるのなら、かわいい女の子と二人きりで過ごすか、一人きりの時間を満喫して過ごしたい。

だったらなんで劇団なんかに身を置いているんだよ、と言えば、そこにやるべき仕事があるからだ。やるべき仕事がある、ということ以上に充実感を感じることはない。ごめんなさいちょっとカッコつけました。


ドラッカーは『マネジメント』のまえがきである「なぜ組織が必要なのか」と題された文章の中で、現代がいかに短期間で組織社会となったかを述べたあとで、こう書いている。


「知識を通じて生活の資を稼ぎ、成果をあげて社会に貢献する機会が豊富に存在するのは、組織だけだ



彼にとって良いマネジメントは、単に企業の成功と経済発展のためではなく、現代社会において人間がその能力を活かして働くために、その中心的課題として求められているのだ。数行のちにはこうある。


「組織をして高度の成果を上げさせることが、自由と尊厳を守る唯一の方策である。その組織に成果をあげさせるものがマネジメントであり、マネジャーの力である。成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」



今日、日本で暮らす僕にとって全体主義の脅威は彼がこれを書いた1973年ほどには現実感をもって感じられない。が、彼の言わんとしていることは十分に伝わってくる。

何かが僕らの生活を蹂躙しようとする時、自由と尊厳のために僕らに出来ることは、ある集団に目的を与え、それを「組織」として運営すること意外にない、と彼は言っているのではないだろうか。

現在の演劇・芸能シーンにおいては、あたかも個人の才能によってその活動が自由になるように見える局面がある。が、それは一面の真実にすぎない。

忘れてならないのは演劇や映画を作るのは圧倒的に多くの場合、組織である、ということだ。だから組織をどのようにマネジメントするべきか? という問題は、劇団の主宰やそれに準ずる立場の人間にだけ関係する話ではない。すべての舞台創作に関わる人間が、己の参加する組織がどうあるべきか、という問題について、なるべく具体的にその理想的な姿をイメージできたほうがよい。舞台創作に携わる限り、あなたは必ず何らかの形で組織に巻き込まれるのだから。

僕が今、危機感を覚えているのは、日本にダメな組織が横行している、ということでは、ない。その逆に、健全な強い組織がどこにもないのではないか? ということだ。ある成果を上げようと志す時、集団が明確な目的を設定できないことは単なる堕落だろう。

劇団は良い演劇を作るための手段であって目的ではない。だから僕は既存の言葉で理解されるような「劇団」というシステムそのものを懐古趣味的に擁護するつもりは最初からない。

良い舞台創作のために、しっかりと機能する組織を作りたい。劇団は、現時点で僕が選択したその仮像にすぎない。だから劇団という組織が必要で無くなった時には、きっぱりそれと決別すればいい。ただ、その時、僕が次に構想しなければいけないのは「個人の自由な活動」ではなく、もっとましな別の組織の在り方、でなければならない。ほとんどの場合、個人で舞台創作を行うことは極めて困難だからだ。


んー。こりゃ本格的にやりだすとなると相当大変だな…。
随時、いったりもどったり、記事の往復をしながら書いていくことになると思います。

おつきあいくださるかたも、どうかほどぼどに読んでいてもらって、このエントリーが含まれるカテゴリー全体が完成するのを気長に見守っていていただきたい。です。そんな奇特な方がいらっしゃれば、の話ですが。
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