んんん? 

  • 2006.09.25 Monday
  • 10:12
演劇制作サイトのfringe blogで、村上龍氏の「13歳のハローワーク」のWeb版についての紹介があったので読んでみた。「舞台俳優」と「劇団員」についてだ。


んんん?


これは相当違和感があるなァ…。いわんとしているところはわかるし、確かに荻野氏の言うとおり「耳が痛い」部分もあるけれど…。

いやまあですね、現実問題として「報酬」のない舞台をせこせこ作っている「劇団員」の私がこれに反論をすれば明らかに「痛いところをつかれてムキになっている」状態に見えるんでしょうが…。んんー、ここは思い切って言ってみましょう。



ダメなんじゃないの、この紹介文? 



村上氏の文章自体も良くないし、荻野氏の紹介の仕方も今ひとつではないでしょうか? 手短に言えば、



「舞台俳優」と「劇団員」という区分には現場感覚としては意味がない、



ということ。一人の俳優についてだって、同じ年にギャラの出る舞台もあれば出ない舞台もあるだろう。ヘタをすればそれは「同じ月」に同居する(前回公演のチョウソンハがまさにその状態だった)。そして当然ながら、ギャラの有無もしくは高低は作品・仕事の質とは関係がない。もちろん動員数も。


村上氏の紹介文では価値判断として、「舞台俳優」>「劇団員」という構図が間違いなくあるわけで、ほとんど露骨な形で「舞台俳優」には敬意を払うけど、「劇団員」には払えない、という意識が感じとれる。差別化そのものに目くじらを立てる気はないが(確かにダメな演劇人は確実に存在する)、その基準がつまるところ報酬の有無としてしか提示されていないのでは議論が粗雑ではないだろうか?


「13歳のハローワーク」では、劇団が安易に巨大化を目指す、いわゆる「小劇場双六」的な成功のモデルケースが未だに最良の形として認識されているのではないか? そんな疑いをもってしまう。

「劇団員」に関しての文章の中で特に気になったのは、ここ、


「…アルバイトをしながら劇団員を続ける若者が負うリスクとは、現実の社会で生きていくための、知識やスキルや人的ネットワークを得ることが非常にむずかしいということだ。」


どうやら演劇のフィールドは「現実の社会」ではないらしい? では彼の言う「現実の社会」とはなんのことなのか? まさか金銭の授受にまつわる関係だけが「現実」といいたいわけではあるまい。では何なのか? 言葉の意味が非常にとりづらい。
「なんとなくわかるでしょ?」では済まない。なにせ私の劇団だって「現実の社会」ではないと言われてしまっているらしいのだから。「現実の社会」が明確でなければ上記の文章は解釈不可能である。


社会について述べた「成熟期」「過渡期」などの言葉も意味が不明瞭で説得力を欠く。文中で現代日本を「成熟期」にあるといいたいのか、「過渡期」だといいたいのかすら定かではないように思う。
現代は、「近代化途上・激動期」から「成熟期」へ至る「過渡期」だといいたいのか? そういう歴史の一本道が実在するというフィクションに付き合ってくれということなのだろうか? 

そもそも、一つの「社会」に対して「この社会は成熟期」「この社会は過渡期」とかそんな判断を、誰がどのような方法で下せるというのか? 相対主義を今更振りかざす気はないが、あまりにも進歩史観的な社会観が透けて見え、首を傾げざるを得ない。
それと気になったのが、


「現代社会は、先鋭的な演劇を基本的に必要としていない。」


という箇所。こう断言する根拠がわからない…。そして、この場合の「先鋭的」が何を指すのかもわからないし、もちろん何が「基本的」なのか、何が応用になるのかもわからない…。
もう一つ、「劇団員」の紹介文から。



「…現代の劇団員のなかには、単に無意味な苦労をしているだけなのに、それを充実感だと思い違いしている若者も少なくない。」



まあ、いわんとしているところはわかるけれども…。そして確かに思いあたる節もあるけれど…。またしても村上氏の言葉が実にぬるい…。もうここまでくると図らずも哲学の領域に議論が踏み込んでしまっている。


どのような「苦労」が人にとって「価値」を持ち「意味」を成すのか? 
言い換えれば、
どの充実感が「思い違い」であって、どの充実感が「思い違い」ではないのか? 
それを本人の実感以外に判定することは可能か?
そういう問題、つまり、

「充実」は実在するか? 

という問題をこの文章は孕んでいる。
私は、そんなものは実在しないと思う。
が、どうもこの文章にはその実在が前提とされている節がある。
どの「充実」に妥当性があるのかを判断する際、彼はその基準を誰と共有しているつもりなのか? 無前提に基準を共有できる集団を前提とする根拠はなんだろう?
そういう「閉鎖的な集団における自己満足には、警戒が必要である」と、私も思う。


これを書く村上氏の立っている場所はどこだろうか? 
彼をして、「何が無意味で何が無意味でないか」を判定でき、そしてその感覚を誰かと共有できると錯覚させた場所とはどこか? 
 
その足場が単に「報酬≒プロ」という言葉だとしたら、あまりにも「現代」を把握していない議論だと感じる。

より高い「報酬」がより高い「価値」を持つ、そう思えた時代や人が悪かったとか良かったとかいうつもりはないが、ただ私は今現在、そのような時代に住んでいないと感じている。

そしてそんなことは村上氏も十分承知しているだろうに…。「勝ち組」とか「負け組」という言葉が流行りだした時、いち早く、そんな言葉で安易かつ一元的に日本人を順位ずけすることはもはや不可能だ、と指摘したのは彼ではなかったか。



えーと、だから最初に戻りますがね、雑なんじゃないかしら、と思うわけですこの文章…。
だから私はこの紹介文を「耳が痛い」文章として紹介するだけでは不十分だと思います。少なくとも私にとってこんな区分けは到底受入れがたい。

これではものすごく多くの優秀な演劇関係者が「劇団員」にカテゴライズされることになってしまう。これは単純に演劇界の現状を把握できていないのではないか、と思うのです。

だってこれを読んだ13歳がある日とことこやってきて、「お、じゃあお兄さんは『劇団員』であって、『舞台俳優』ではないんだね? じゃ、プロじゃないから、無意味だね」と言われた日には…。んー…。



ここからは翌日にかいた記事、「んんん? の補足」を載せておきます。
長くてすいません。




村上龍氏の「13のハローワーク」に関する記事の補足をしたい。

昨日は論点が散漫になってしまった。もっと単純なことだった。
まずは私も、舞台役者一般について13歳に向けて説明をする、という立場を想定して考えてみた。その際、どんな情報が価値を持ち、また、持たないのか?
村上氏が舞台役者一般を「劇団員」と「舞台俳優」のように二分したのは確かにわかりやすかった。ただ両者の分類基準はより明確であったほうがよいだろう。恣意的であやふやな基準ではそもそも分類にならない。
村上氏は「舞台俳優」の項で、




「…舞台俳優とは、演劇やミュージカルなどの舞台に立ち、そこで何らかの報酬を受けとっている人のこと。劇団に所属していても、報酬がない場合は、舞台俳優ではなく、劇団員と呼ぶ。」




と述べている。彼の基準が「報酬」にあることは明らかだが、どの程度の「報酬」を受け取った場合に「舞台俳優」の条件を満たすのかは不明だ。実際、具体的な金額を提示するのは困難だろうから、仮に「役者としての収入だけで生活が可能であるか否か」というのを「報酬」の基準にすればよかったのではないか。専業俳優と兼業俳優のような区分だ。それならすっきりするのではないだろうか。
私が言いたいのは「報酬」で分類するなら、その問題に徹底して紹介をすればよかったのではないか? ということだ。要するに私が村上氏の分類に対して抱いた違和感の核心というのは、






「報酬」の有無の問題と「演劇の質」の問題を混同している。






ということだ。
報酬を得ている優れた俳優もいれば劣った俳優もいる。
報酬を得ていない優れた俳優もいれば劣った俳優もいる。
当たり前すぎる話だが、そういうものではないだろうか。優れた俳優ならば必ず報酬を得られるようになるというわけではないし、報酬を得られるようになった俳優が、むしろ「舞台俳優」であることを辞めてしまった、という例もよくある。
それは「演劇の質」の問題でも個人の資質の問題でもなく、舞台芸術にまつわる、もっと構造的な問題であるように思う。そしてもちろん、個人のライフスタイルとしてあえて兼業俳優を目指す人間がいてもいいはずだ。そのスタイルのまま「質」の上で「報酬」のある「舞台俳優」を越えていくことは原理的には十分可能だ。

村上氏は「報酬」の有無という純粋に経済的な視点から「劇団員」と「舞台俳優」とを峻別したにも拘わらず、何故かそこに「敬意を示せるものとそうでないもの」「プロと自己満足」という価値判断を加えてしまった。それは間違ではないだろうか。
経済基準の分類に「演劇の質」の問題を織り交ぜるべきではない。「質」に言及するためには当然、何が質の高い演劇なのか? という芸術論みたいなものを展開せざるをえないわけで、もちろん「ハローワーク」とはそういう本ではない。芸術論なしに「充実感」や「演劇の質」などを自明のものとして押し付けるのは読者に対して失礼だろう。
読者には信用に足る確かな情報が提供されればいいのではないか。価値判断をするのは彼らだ。根拠なき価値観の押し付けこそ「閉鎖的」な思考だと私は感じる。

経済的な成功と「演劇の質」は連動しない。むしろそっちが私の現場感覚としては自明のことのように思える。面白い劇団がギャラを出せないことなど珍しくないし、ギャラが出ているであろう公演で酷い質のものに出会うこともしばしばだ。

だから、村上氏の言う「舞台俳優」の条件を満たす人間―――「研修所や専門学校で、あるいは独学で、基礎を学び、厳しいオーディションに合格して劇団に入り、さらに劇団のなかでの競争に勝って、実際に舞台に立ち、報酬を得ることのできる人」の中にも当然ながら、「閉鎖的な集団における自己満足」の演技をし続ける役者が存在する、と言っておきたい。繰り返すが、「報酬」の問題と「演劇の質」の問題は連動していないのだ。それが私の結論である。







コメント
  • 300644
  • 2007/07/18 4:20 PM
  • 391907
  • 2007/07/25 12:40 AM
初めまして。
検索でやってきた者です。

広田さんは劇団員なんですね。
でも残念ですが、やっぱり村上さんの説明の方が、
広田さんの反論(?)より上を行っていると思いました。

まず、

「舞台俳優」と「劇団員」という区分には現場感覚としては意味がない、

と反論してますが、反論になってません。

何故なら、村上龍さんはちゃんと、
「その演劇の質にかかわらず」と書かれています。
演劇の質とは、すなわち演劇の現場の質でもあります。
演劇とは公演中の数時間だけとは言えないはずです。
勿論、観客にとっては違いますが、
村上さんはちゃんと「その演劇の質にかかわらず」に関しては、
名詞や代名詞だのの対象を特定する単語を入れていません。
「演劇」に関する全般に対しても「質にかかわらず」と言っているのです。
つまり、広田さんの掲げる現場感覚こそ、何の意味もない。
「かかわらず」ですから。
広田さんは末尾に、
「報酬」の問題と「演劇の質」の問題は連動していないのだ。それが私の結論である。
などと最後まとめていますが、結局村上さんが述べた、
「その演劇の質にかかわらず」の部分をむしろ肯定しているじゃありませんか。
「ダメなんじゃないの、この紹介文?」と言われる筋合いも無いわけです。

村上氏の紹介文では価値判断として、「舞台俳優」>「劇団員」という構図が間違いなくあるわけで、ほとんど露骨な形で「舞台俳優」には敬意を払うけど、「劇団員」には払えない、という意識が感じとれる。


ここは全く同意です。
でも次に書かれる「その基準がつまるところ報酬の有無としてしか提示されていないのでは議論が粗雑ではないだろうか?」
には、同意できません。

「13歳のハローワーク」では、劇団が安易に巨大化を目指す、いわゆる「小劇場双六」的な成功のモデルケースが未だに最良の形として認識されているのではないか? そんな疑いをもってしまう。

などど、書いていますが、
「13歳のハローワーク」では、そんな演劇論は語っていません。
それを語るぐらいなら、他の演劇とは全く関係ない職業など紹介するわけがないじゃないですか。
広田さんは「劇団員」とか「舞台俳優」とか、
演劇に関する項目しか、あんまり読んでいないんじゃありませんか?

「…アルバイトをしながら劇団員を続ける若者が負うリスクとは、現実の社会で生きていくための、知識やスキルや人的ネットワークを得ることが非常にむずかしいということだ。」

これに反論したいのだったら、
劇団員になっても生きていくための知識やスキルや人的ネットワークが作り得るとする論拠を、
広田さんが述べなければ、到底、他人を納得させることは出来ません。
そして広田さんはそれを言っていない。
結局、村上さんのいう「報酬の世界=現実」におけるリスクを劇団員が負うって事に対して、
「確実に間違いである」と証明出来ていないじゃないですか。

「現代社会は、先鋭的な演劇を基本的に必要としていない。」
も結局、否定しきれていません。
実際にほとんどの劇団員がお金持ちじゃないじゃないですか。
あなたの劇団の演劇を見ている人間と見ていない人間と、どっちが多いですか。
広田さんは「100か0」じゃないと、必要とするしないの議論が出来ないみたいですね。
「多いか少ないか」でも必要とするしないの議論は出来るのですが。


何が現実で、何が現実じゃないかに関する議論ですが、
ちなみに広田さんよりも役者として数段上の緒形拳さんは、
「役者としての自分を仮想」とし、「役者以外の自分を現実」とし、
さらにその両方を、「役者としての緒形拳」と「人間としての緒形拳」に、
それぞれ還すことで、自らを高めていったとNHKのドキュメンタリーなどで言っています。

広田さんの文章で非常に多いのは、
言葉の定義に対して、やたら疑問符を持ち出してくることです。
これは議論などで明らかに間違っている人が、やたら持ち出してくる手法です。
例を挙げると・・・

・どうやら演劇のフィールドは「現実の社会」ではないらしい? では彼の言う「現実の社会」とはなんのことなのか? 

・一つの「社会」に対して「この社会は成熟期」「この社会は過渡期」とかそんな判断を、誰がどのような方法で下せるというのか? 

・どのような「苦労」が人にとって「価値」を持ち「意味」を成すのか?

・彼をして、「何が無意味で何が無意味でないか」を判定でき、そしてその感覚を誰かと共有できると錯覚させた場所とはどこか?

こういうことを言う人は、いつも自己を否定されたくないために、
議論する場の中で、絶対に否定できない環境を作り出そうとしますね。

インターネットは発信には向いていますが、受信には向いていません。
実際にその弊害が出ていて、村上さんの言う事を正しく広田さんは受け取れていません。
広田さんの手法を利用しますけど、
「書いている事と伝えたい事」の違いぐらい見出してから、自分の意見は発信してください。
意見を言うのは素晴らしいですが、言うって事は言われるんですよ。

さもないと、私のようにあなたを真っ向から否定してくる人間が、
絶えずあなたの前に現れてくるでしょう。
  • ショウ
  • 2010/03/20 5:54 PM
コメントどうもありがとうございます! 

数年前の記事にコメントがつく、というのもネットの面白さですね。返答が遅くなりましてまったく申し訳ありませんでした。

ショウさんの指摘してくださった内容に再反論しようとすると一本記事を新たに書く必要があるようです。と、思ったら「13歳」の新版が出版されるんですね。そちらは全く目を通していないので自分にはここであーだこーだ言う資格はないようです。

しかし新版も面白そうですねこれは…。

正直に言って、これを書いた当時の自分には、自己否定されたくないがための悔しさに根差した反論をしたという現実はあると思います。今も、悔しさはありますが…。

職業として演劇で暮らしていけているわけではない自分の現状を省みて、ご指摘、真摯に伺っておきたいと思います。

そしてちょっとすぐにとはいかないかもしれませんが、現在の自分たちにとって真に価値のある反応を返せるよう努力していきたいと思います。

あやふやな返答で申し訳ないのですが、この問題を再び思い出させてくれたことに感謝いたします。どうもありがとうございました。
  • 広田
  • 2010/03/29 3:14 PM
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