どうにもうまく言えないけれど……

  • 2014.07.24 Thursday
  • 04:54

今年になってから何度か僕は、演劇界の一部に流れている(と僕が感じる)いわゆる戦後民主主義的な雰囲気に異を唱えるような発言を行ってきた。が、どうも自分の言いたいことをちゃんと言えないもどかしさがあった。個別の政治的イシューについてであれば僕にもそれなりの考えがあったから、ついついそれについての反論や主張をしてしまってきたのだけれど、どうも本当に言いたいことはそういうことではないような気がする。「九条やめたら運が逃げますよ」の鼎談参加者や野田秀樹さんが、たとえば731部隊について、たとえば集団的自衛権について何らかの意見を持ち、それを表明することに対しては僕は本当はどちらでもよいような気がしている。いや、今までの反論をここで覆すつもりは一切ない。ただ、個別の問題についての政治的な正しさ、あるいは歴史的な正しさを論じることは、僕が本当にしたい議論とは少し別のことなんじゃないかという気がしている。

もちろん政治の問題にしろ、歴史認識の問題にしろ、大切な問題だ。だから僕もそういった問題について関心がないわけではないし、自分なりにあれこれと考えてみたりもする。確かに演劇は、というよりあらゆる表現行為はなんらかの意味で政治性を持つものであるし、歴史から完全に自由な場所で創作を行うことは不可能なのだから、そういった個別具体的な問題について時には踏み込んで議論をする機会があってもいい。だが、だからといって演劇作品が、あるいは劇作家協会のような演劇人の集団が、団体として積極的に政治性を獲得しようとすることには疑問がある。僕は、その有効性に対して根本的な部分で疑問を持っている。

端的に言えば、いわゆる「大きな物語」がすでに失効してしまったポストモダン状況を生きる現代人にとって、いや、すでにそういった状況の中で幾度となく態度変更を余儀なくされてきた現代人にとって、そういった「運動」はあまりに時代錯誤的な「大きな物語」への回帰を呼びかける声のように聞こえてしまうのではないだろうか。だとすれば、それはすでに有効性を失ってしまったものだ。もっとも、本人たちは自分たちこそが「大きな物語」≒「国家主義的右傾化」に対向するものである、という意識のもとに活動しているのかもしれないが。

もう少し噛み砕いて書こう。言うなれば、僕の行った批判はいくつかの点で対象をつかみ損なっていたのだと思う。たとえば、集団的自衛権の問題が語られる文脈の中で、日本が
いかに主権国家として主体的な安全保障環境を整備していくか? という本来議論されるべきであろう論点から遠く離れて、心情として反戦の気分を盛り上げたいと考える人たちがいた。そのことに対して、僕は細かな点を指摘して「それって論点ズレてない?」という種の批判を行ってしまったようなものだ。確かに、ズレてはいた。だが、おそらく論点がズレていることぐらいそれを主張している当の本人たちも自覚しているのではないだろうか。そしてそれがある種の「趣味の問題」にすぎないという諦念に至っている人も多いのではないだろうか。

「九条やめたら運が逃げますよ」の鼎談参加者に対して僕が抱いた違和感の本質は、その杜撰な議論の内実に対してではなく、どうしてそんなに「戦後民主主義」を信じることができちゃうんだろう? というその信仰の強度に対してのものだった。「九条を守ろう!」という主張もあっていいだろう。「新しい歴史教科書を作ろう!」という主張もあっていいだろう。でも、いずれにせよそんなに熱心にそれを信じるモチベーションが僕には無い。そのモチベーションの無さこそが僕の(というより「僕の世代の」といった方がいいのかもしれないが)、出発点であったように思う。

なにも僕は今更おなじみの価値相対主義を持ちだして「みんな違ってみんないい」などということを政治的な問題のレベルで主張するつもりはない。僕自身にしたってある立場を採用し、その都度、現実的な問題に決断を下し続けるべきだという「責任」を引き受けて生きてきた人間だ。価値観を宙吊りにしたままその不確定性のなかにしぶとく留まる、という抑制的な態度からは遠い場所で暮らしてきてしまった人間だ。「何らかの決断を下さざるをえない、たとえそれが根拠の薄弱なものであったとしても」というのが僕の感覚としては近い。だから
未だに「九条を守ろう!」というたぐいの言葉の下に劇作家が連帯/共闘できると夢想する感性そのものが、僕にとっては果てしなく遠く感じられる。

大雑把な議論で恐縮だが、「あらゆる価値観は相対化されてしまって何を信じるかはもはや個人の自由だ。ただ、カルトに走ってテロを起こすのはヤバいぜ」という問題意識からすでに20年近くが経とうとしている。その間、何らかの価値体系を復権させようとしたり、あるいは価値観を宙吊りにしたままで相対化の時代を乗り切っていく技術を磨いてみたり、様々な試行錯誤がなされてきたように思う。すでに現代においてはどんな態度をとっていようともそれがある種の恣意性を免れることは不可能であり、もはやそれは前提条件と言ってもいいだろう。

そういった状況の中で劇作家にまだ何か果たすべき役割があるとすれば、それは何らかの態度のその一類型をまざまざと提示してみせるとか、あるいは自分たちを取り巻く言説の有効性/無効性を看取し、その思想的根幹をもう一度掘り返してみるとか、なんだかそういった種類のことではないだろうか。今や、劇作家たちが合流できる地点を模索することはとてつもない困難を伴うし、その割に得られる成果は少ないだろう。だから思う。もはや演劇人の集う協会に特定の「性格」はいらない。割り切って、ツールとして存在していく道を模索するほうが、よっぽど存在意義は高まるんじゃないか。僕はそう感じる。


(※なぜコメント欄での稲富さんの指摘に正面から答えることができなかったのか、ようやく少しだけ書けた気がする)
 
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