日本の演劇人の思想的な傾向について思うこと※微調整版

  • 2014.02.05 Wednesday
  • 11:05
これはいつかは書きたいと思っていてなかなか書けずにいたことだ。もしかするとこの文章によって少なくない人たちが僕の芝居を観に来るのをやめてしまうかもしれない、と思って何度も僕がこの文章を書く手は止まってきた。演劇人にとってそもそも観客席に座ってさえもらえない、ということはかなり恐ろしい。誰かがチケットを買って自分たちの芝居を観に来てくれるからこそ僕たちは演劇を行うことができるわけであり、それが絶たれることは演劇人にとって恐怖だ。
 
と、あんまり大げさな書き方をしてもいけないだろう。僕がここで書きたいのはそんなに過激なことではないはずだ。少なくとも僕はそう思っている。ただ、一言だけ念を押して強く確認しておきたいのは、他のどの劇団でもそうであるように、アマヤドリにおいても僕の思想信条と劇団員および公演に関わるすべての方々の思想信条にはまったく関係がないということだ。つまり、以下の文章はアマヤドリとしての公的な見解などでは全くなく、純然たる個人の考えだ。
 
日本の演劇界の思想には大きな偏りがある。それは当然といえばあまりに当然のことで、そもそも演劇界と左翼運動との間には切っても切れない深い絆がある。今、ここで日本演劇史と左翼運動史の関係を詳らかにするほど僕の知識は深くないが、プロレタリヤ文学と呼ばれる文学運動がかつて文学界を席巻したように、プロレタリヤ演劇というものも新劇の初期において決して小さくない力を持っていたそうだし、その後も演劇運動と左翼運動はある意味で連帯しながら進んできた側面があるのだろう。以前、僕の知り合いのスタッフの方が両親に演劇の道に進みたい旨を相談した際に、「左翼になるのか?」と質問されたという話もあるぐらいだ。そのご両親の認識はもちろん大いなる偏見ではあるが、一方の事実として「演劇≒左翼」というような短絡的なイメージを広く持たれた時代があったこともまた事実だ。(あるいは現在も?)
 
演劇人は自分の生活において多くの演劇人と関わる。下手をすると、演劇人ばかりと関わり続ける。もしもそのことが大きな思想的な偏りを育むことになるのだとすれば、僕はそこに大きな注意が払われなければならないと考える。たとえば「憲法9条」の議論にせよ、「脱原発」にせよ、「国旗国歌」の問題にせよ、あるいは直近のことで言えば「特定秘密保護法」にせよ、「安倍晋三」、「橋下徹」という人物をどのように評価するかという問題にせよ、国論を二分するような対立意見である。けれど、うっかり演劇人の意見にばかり耳を傾けていると、それはあたかも国論を二分する議論などでは無いかのように思えてくることがある。すでに「正しい」考えは明らかであり、にも関わらずわけのわからない好戦的な勢力が時代錯誤な主張を振りかざしているだけかのように、見えてきてしまうことがある。もしも多くの一般の観客から、演劇業界全体がある種の思想的な偏りを前提としているものだと誤解されてしまえば、国論を二分する議論のうち、もう半分のひとたちは始めから観客席に居ないという状況が生まれてしまってもおかしくない。僕は現状がそんなに極端なものだとは考えていないが、けれど、そういった危機感を持っておいてもいい、ぐらいのことは思っている。
 
ああ、こういった話は書くのが本当に難しい。僕がここで言いたいのは何も特定の主義主張に対して間違っているとか正しいとか、そういった種類のことではない。単に僕は演劇界の大多数の意見と国民の大多数の意見との間には、そのバラつき方、意見の分布の仕方に大きな隔たりが存在しているのではないか、ということを指摘したいだけなのだ。当たり前のことだけど僕は演劇をやっている人間だからなるべく多くの人が演劇に興味を持ってくれて、劇場の椅子に腰をおろしてくれることを望む。だから演劇をやっている人たちがすべからくある種の思想的な偏りをもっていると誤解されてしまうことは、僕のその望みと大きく反発するものだ。そうであってはならないと思う。それが僕のいいたいことだ。
 
この思いを僕が強く持つに至った直接のきっかけは野田地図の『エッグ』という作品を観たことだ。僕は昔から演劇人としての野田秀樹さんを深く尊敬してきたし、はっきりいって彼は、憧れていると言ってもいいぐらいの存在だ。そのことは今も変わらない。けれど『エッグ』で描かれていた歴史観は僕にはあまりに極端な偏りを感じさせるもので、率直に言って観劇した際にはその思想的偏りの激しさに驚きを禁じ得なかった。
 
観ていない方のために少しだけ僕が問題にしている部分について説明をしておこう。あの劇において野田さんは明らかに日本のいわゆる「731部隊」を念頭におき、あたかも日本軍がガス室を使って当時満州に住んでいた地元の人たちを実験と称して殺した、かのような描写を行った(と、少なくとも僕はそう感じた)。皮肉なことにそのガス室のシーンはとても美しく演出されていたのだが、僕は観ていて「大丈夫なんだろうか?」という不安を強く持った。問題が拡散するといけないので、話を「ガス室」に限定しよう。僕の歴史認識では少なくとも「ガス室を使用しての虐殺」というのは事実認定された歴史の定説ではない。「731部隊」については今も昔も大いに議論があり、特に話を「ガス室を使用しての虐殺」にまで絞ればそれが歴史的事実であるかどうかはかなり疑わしい所だと思う。
 
そのことを野田さんがある種の覚悟をもって劇にすることは大いに結構だ。それは作家の責任においてなされたのであればいい。ここで万が一にも誤解の無いようにいい添えておきたいが、僕は彼の訴えたかったことが「反戦」という主張であることは確かだと思うし、それに反対するつもりは毛頭ない。それに僕は「731部隊による人体実験は無かった」と主張したいわけでもない。そんなことは、わからない。ただ、わかるのはそのことを断定的に述べるためにはとてつもない量の詳細な資料研究が必要になるだろうということだ。思うに野田さんはあまりに歴史的事実として語るには意見の分かれている事柄を、あたかも確定的事実かのように劇の素材にしてしまったのではないか? そして、そのことは彼の作家としての責任(いや、無責任)の問題なのだから一旦脇に置いておくとしても、それに対してあまりに演劇人および観客側の反応が鈍すぎやしないか? ということに疑いを持ったのだ。
 
僕は当然、野田さんは盛んに政治的な批判に曝されるのだろうと思った。そのことを覚悟なさっているんだろうと思った。が、当時において事の真偽を議論する声は少なくとも僕の耳にはほとんど聞こえてこなかったし、「政治的偏り」を批難する言葉は聞こえてこなかった。単に僕がそういった批判を見逃したり聞き逃しているだけなのかもしれないが……。僕は心配した。多くの観客があの劇で描かれた「ガス室を使用しての虐殺」を歴史的事実として受け入れてしまうことを。そのことに関してはもっともっと注意深い議論がなされるべきだからだ。しかし、もっと心配だったのは、こんな想像はしたくもないが、もしも万が一、野田さんが歴史的な事実への認識が多少あやふやだったとしても、日本軍を悪く書く限りにおいてはそんなに批判はされないだろう、といったような大雑把な考え/甘えをチラとでも心に抱き、また、そのことに対して観客/批評家/同業者の側の無風が、まんまと彼に成功を収めさせてしまったのだとしたら、そこには大きな危険を感じる。
 
昨今、「ネトウヨ」が話題にされ、「ヘイト・スピーチ」が話題にされ、日本の右傾化に対して警鐘を鳴らすような言説を盛んに耳にする。そのことは良いと思う。大いに論じられるべき問題だし、批判されるべきことがたくさんある。けれど、そもそも警鐘を鳴らしたい当の相手が観客席に始めから座っていないのだとしたら、どうだろう? そういった批判は大きく力を失ってしまうのではないだろうか。僕はそれを恐れる。
 
哲学者の萱野稔人さんの議論によれば、近年の日本に見られるようなナショナリズムの高揚、いわゆる右傾化/保守化の流れは何も日本に固有の現象ではないようで、移民によって仕事を奪われてしまった人々による極端な排外主義というのは、フランスやイギリスでも同様に見られる現象なんだそうだ。と、すれば、少子高齢化によってますます海外からの労働力に経済を依存せざるをえなくなっていく日本において、ますます右傾化したナショナリストたちはその勢力を増やし、盛り上がっていくだろうという見方が成立する。現にそういったことが進行しつつあるようにも思える。
 
そういった状況の中にあって、演劇界の持っている言葉や思想が旧態依然としたいわゆる戦後左翼的なレベルに留まるのだとすれば、進行し続けるナショナリズムに対して真に有効なアンチテーゼを提唱しえないのではないだろうか。「政治のことはよくわからないけど、なんとなく周りの人のことを聞いているとそうなのかなと思う」というのが、大多数の人間の政治的イシューに対する向き合い方だろう。それはそれで構わない。みな、それぞれの暮らしがあるだろうし、そんなことばかり考えていられる立場に無い人が多く存在するのは当然だろう。だからこそ、演劇人があたかも無前提にナショナリズムを否定し、「愛国心」という言葉を「戦争肯定」の文脈でしか捉えられないのであれば、進んでいく右傾化に対して何ら有効な警鐘を鳴らすことなど出来はしないのではないかと思う。
 
演劇界に巣食っている内省なき反権力志向はいろいろな意味で有害だと僕は思う。たとえば官僚や行政の人たちと積極的に対話の場を設け、気の遠くなるような交渉をしている演劇人に対して、演劇の内部から「権力に迎合しやがって」式のくだらない批判を耳にしたことも確かにあるからだ。「権力なんかクソ喰らえ!」と威勢がよいのは結構だ。が、ではなぜ行政に対して公的助成を申請し続けるのか? その論理的な矛盾をもっと深く自覚するべきだと僕は思うし、僕たち舞台芸術に従事する人間は純粋な市場原理によってではなく、適切に運用された公権力によってこそ文化芸術が助成を受けることを望んでいるはずだ。僕たちは、舞台芸術になんて一切触れない人たちに対してさえ、そこには税金が投入される価値があるのだと証だてなければならないはずだ。日本が国民国家(ネーション・ステート)であり、その主権が国民にあると信じるのならば公権力に対してもっと高いレベルの批判がなされるべきだろう。それは自分たちのことなのだから。「官僚なんかクソくらえ!」という批判も時に応じてなされるべきだろうが、東京大学時代に一緒に演劇を作っていた人たちの中には現役の官僚として一生懸命働いている人たちが複数いるのだから、僕としては呑気にそんなことは言えない(←エリートアピール)。僕は知っている。試験に受かって官僚になるのはそれなりに大変なことだし、僕だって勉強をして試験に受かればそういった立場になる権利もあったのだということを。そして僕にはそういった根気が微塵も無かったのだということを……! って、あれ? これじゃまるで僕が勉強する根気が無かったから演劇の道を志したみたいじゃないか、違うわい、こちとら望んでやっとんじゃ、官僚なんかクソ喰らえ、権力の犬どもが! って、おや……、えーと、なんだか興奮してちょっと議論が拡散してしまったな……。
 
ともあれ、僕は演劇界の内部にもこういう人間がいるのだということを演劇界の内外の人に知って欲しくてこれを書いた。一昨年の総選挙で自民党が大勝した際に演劇人の知り合いが、「どうしてこういう結果になるのかまったくわからない。私の周りには自民党を支持している人なんか誰も居ないのに……」という感想をもらしていて、いや、もしも本当に「わからない」のだとしたら、観客席に座るであろう多くの人たちの心理も「わからない」と言ってしまっているに等しいのだから、そこは「わからない」で思考停止するのではなく、「どうしてそんなにバカなのよ」と蔑視するのでもなく、冷静に状況を分析する力をこそ磨くべきなんじゃないかしら、と思ったのだ。当然だが僕は、自民党は支持すべきすばらしい政党だ、などと言っているのではない。ただ、「戦争をやりたくて仕方のない人達が安倍自民党を支持している」といった程度の理解しかないのでは、あまりに認識が粗雑だと言っている。平田オリザさんが散々強調するように「対話」こそ演劇において、また現代において重要な技術なのだとしたら、そのためには自分と異なる意見をもった他者を理解/把握する努力が必要だし、反対意見の側に立つ人間の知性を認める態度が必要だろう。広く、対立する意見の双方を理解する力をもってこそ、その間にある矛盾や越えられぬ壁を描き出すことが可能になる。僕はそう信じている。



※後日追記:『エッグ』についてはもっとはっきり言わなければなるまい。僕はあの作品における歴史の扱われ方には作家としての良心を感じない。万が一、再演をするのであればどこからどこまで史実であり、どこからが単なる野田さんの空想なのかを明らかにすべきだ。あの問題はそのぐらいデリケートな素材だと思う。たとえば、だ。ヴェトナム戦争において米軍がどのように振る舞ったか、韓国軍がどのように振る舞ったか、ということを演劇にしようと思うのならば、史実の定かでない部分について憶測や空想でフィクションを作ることがいかに危険なことか分かるだろう。他国の軍隊が犯したかどうかわからない戦争犯罪を憶測で糾弾すべきではないのと同様に、自国の軍隊に対しても配慮がなされるのはあまりに当然のことだ。

 
コメント
面白く拝見させて頂きました。
マーキュリーで広田さんの後輩にあたる者です。
多くの共感と疑問を感じましたので、コメントさせて下さい。


演劇をやっている人たちに「思想的偏り」を感じることは頻繁にありましたし、またそれが世間の大多数の人々の意見と乖離しているという「自覚」が薄いことに疑問を感じることは多々あります。

しかし、それは大きな問題でしょうか。
私は演劇というメディアはその受け手の少なさが特徴ではないかと思います。少数派の個人的意見(表現)を発表できる場ではないかと思うのです。仮に野田さんが731部隊について偏った歴史観を提示していても僕は特に大きな問題に思いません(広田さんが問題視しているのは、観客のそれに対する反応の鈍さですが)。

そういった偏りが出るのは演劇というメディアにとっては必然ではないでしょうか。もちろんどんなメディアにも偏りはありますが、演劇はよりそうではないかと考えます。圧倒的に母数の少ないメディアだからです。

公的権力の助成金で成り立っている演劇界とはいえ、大多数の意見やナショナリズムに対する有効なアンチテーゼを期待して演劇を観に来る人は少ないのではないかと思いますし、そういった必要はあるのでしょうか・・・

私の個人的な意見として、最も演劇界の人々と大多数の意見との隔たりを感じるのは、「経済」に関してです。

大半の日本人が会社勤めによるサラリーで生活しているのだとすれば、結局大多数の日本人が重視しているのはあくまでも「景気」という名のぼんやりした経済状況でしかありません。

安倍政権の支持率が上がったからといって右傾化やナショナリズムといった「思想」に回収して問いを立てること自体そのものが、大多数の日本人と乖離しているように思います。大多数の人々によって左翼・右翼はどうでも良いのではないでしょうか。

現代の政治的思想は、経済政策と切っても切れない関係のはずです。そういった「経済」に対してまで深く切り込んで思想を考えた演劇を私は観たことがありません。もし大多数の意見を意識しながら演劇を作るのであれば、もっと経済に対する切り口は必要ではないでしょうか。

しかし、私はその必要を感じません。なぜなら当初に述べたように演劇はそもそも偏りのある少数派が集まる場所だと考えますので。どういった少数派かと言いますと、右翼・左翼・ナショナリズム・権力批判以前に、それらを含めて社会的問題をヤケに「思想」的に捉えたがる少数集団、ではないでしょうか。

私も文学部思想学科の学生ですので、演劇という枠内において低レベルな権力批判等に対する危機感などは共感するのですが、一方で演劇という枠はいくら高レベルになってもあくまで現代の根本的関心である「経済」には深く切り込まない(切り込めない?)少数集団の枠内を出ないのではないかと思ってしまいます。

少し論点がずれているかもしれませんが、僕が常日頃から演劇に対して持っている疑念は下記のようなものです。

演劇とは

経済感覚が希薄であり、いくら社会問題を取り上げても、大多数の日本人からすれば「そういう問題じゃないだろう」という感想を持つような思想的切り口に終始し、メディアとしての影響力の小ささという構造的問題にも起因して、思想的な(特に左翼的な)思考回路を持つ少数の人が集まる場

になっている。
その枠内で低レベルなのは当事者として危惧すべき問題だが、あくまでもこういった枠での表現でしかない。私はそれで構わないと思っている。

これが個人的な感想です。
どうでしょうか・・・
  • 山口大我
  • 2014/02/05 1:35 PM
いやあ、なんとも迅速に骨太な意見が返ってきてよろこばしい限りです。どうもありがとう。

あなたの論点は大きく二点。本質的な部分では同意をいただいているようなので簡潔に答えたいと思います。

一点目。「……そういった偏りが出るのは演劇というメディアにとっては必然ではないでしょうか」という点。あなたが正しく読みといてくださったとおり、僕も作品の内部においてある程度思想的に偏った作品が存在すること自体には問題を感じていないんです。そこにこそ演劇の存在価値があるのではないかというあなたの意見にも同意します。では僕が何を危惧しているかと言えばその偏り具合の激しさです。ちょうど前回のエントリーで書いたこととも繋がるのですが、20年後の小劇場演劇では誰が客席に座るのか? ということなんです。多分、学生運動華やかなりしころに青春時代を過ごした人たちと比較して、若年層は今後ますますぼんやりした左翼志向には親和性を持てない人が増えていくと思うんです。でも、前述のように特に小劇上の演劇界においては若年層こそが主戦力という現実がある。と、そこに関しての危機感なのですね。ただでさえ減少傾向にある若年層の参入が、思想的なつまづきによって助長されてはならない、という問題意識なんです。要するに「いろんな意見の人たちがいるなー」という状況になればいいと思っている。逆に言えば、今はそうなってないんじゃないかと思っているということですね。だから野田さんの作品内容そのものについてを問題にしたのではなく、その無風の不気味さに対して違和感を覚えたという書き方になったのです。

もう一点、経済に関してなのですが、それこそが国民の大多数の主要関心事であることに間違いはないけど、特にそれを描く必要は無いんじゃないか、というあなたの意見にこれも賛成です。もちろん景気の問題は国民の大きな関心事だろうし、だからといってそういったものを演劇作品に求めていないことも事実でしょう。むしろ資本主義/市場原理的な思考で普段生きている人たちが、それ以外の観点から物事を捉えたいと思った時に、また違った角度から人生や世界を映しだすのが芸術の役割だと僕は思っています。きっと多くの景気を気にしている人たちも「金持ちになりたい!」みたいな単純な欲望はすでに起動しなくなってしまっている人たちも多いと思うので、ある意味では他律的な力によって資本主義的な生活を強いられているとも思うのです。そこから何かはみ出て行く可能性みたいなものを芸術作品を通じて感じさせていけたらいいな、と僕は思っています。
  • ヒロタ
  • 2014/02/05 5:22 PM
 ツイッターからきました。最近演劇に興味をもつようになった大学生です。

 大変興味深く読ませていただきました。未熟者ですがいくつか思うところを述べさせて下さい。
 演劇業界全体に、極端な思想的偏りがあることを危惧していらっしゃるということはよくわかりました。そのことについては、私も薄々感じる程度の認識しかなかったので、実際に演劇業界の方の意見として伺うのは初めてで新鮮に感じました。その偏り具合の激しさに問題を感じるとおっしゃるからには相当なものなのだろうと思います。
 演劇に携わる人々が思想的偏りをもっていることを前提にしないでほしいとのことですが、これには少々疑問を感じました。演劇というエンターテインメントには政治的思想を超越したところに存在していてほしいという願望が あるからです。演劇が単に思想の表明の手段なら、政治的な発信をする場合は演説をすれば良いのでは?と思うのです。しかし前の方のコメントと、それに対する広田さんのお返事を拝見するに、思想的偏りがあること自体に問題があるのではなく、これからを担う若年層が参入するにあたって演劇界に対し左翼的なイメージをもっていては入りにくいだろうというご懸念があるということだと解釈しました。
 「演劇界の大多数の意見と国民の大多数の意見との間には、そのバラつき方、意見の分布の仕方に大きな隔たりが存在しているのではないか」というご指摘ですが、これは昨今の右傾化によってごく最近出てきた現象だと思われます。ネットをしない大多数の国民は、例の野田秀樹氏の演劇を右寄りのバ イアスで観ない人々だと思います。 
 そこで私の最大の疑問なのですが、広田さんは演劇を観る以前に、政治的リテラシーを観客に求めるということでしょうか。「無風の不気味さ」に対して違和感を覚えるのだとすれば、それは観客の思想に対する認識にも疑問を呈していらっしゃると考えてよいのでしょうか。

 
  • 増田嘉郎
  • 2014/02/05 10:31 PM
数年前までアマチュア演劇で役者をしておりました。
自分自身、思想的偏りが出るのやヒステリックに反射神経で批判する人達が嫌でしたので出来る限り冷静にリベラルに捉えられるように努めていました。
ただし、思想的には左なんだろうと思っています。左翼批判の左翼みたいなひねくれものなのかもしれません。

思ったのは、広田さんの信条はともかくとして、日本人の態度に対して非常に危機感と関心を持っているんだなという事です。そこに一番共感しました。

私は現代の左翼運動についても演劇界についても生温さを感じてしまうところがあります。
ヘイトスピーチは流石にどうかと思いますが、私は自分と同じ主張でなかったとしても全然構いません。
ただし、無関心には是正を求めたくなります。
左翼にしろ右翼にしろ、ごく一部のマイノリティの小競り合いで、多くの日本人にとってちょっと痛い人達みたいな感じになってるのは情けないというか。

以前、役者をしていた時はデモに参加したりはしませんでした。
あくまで演劇活動で主張すれば、それで自分の責任を果たしていると何処か思っていました。
それでも、離れてみてそれは大きな間違いだと気付きました。
活動に意味がないわけではありませんが、その声はごく一部の人と自分のちょっとした隙間を満たすくらいのものなんだと。
言ってしまえば自己満足なんだと。
本当に主張があるなら、演劇活動以外でもアクションをとらないと駄目だと思うようになりました。

やっぱ、演劇だったり役者だったりって“物語”っていうフィルター越しの主張に、どこか守られてるというか、保険かけてるような感じがして、それが演ってる時もずっと引っかかってたんです。
今回の広田さんのブログを読んで、再び考える事が出来ました。

僕は胸を張って左翼だと。そして、キング牧師じゃないですけど何時か街宣車のあんちゃんとアツイ握手したいと思ってます。
  • 板垣陽太
  • 2014/02/06 12:03 AM
>増田嘉郎さま

コメントありがとうございます。いくつか返答を……。
まず、

>演劇が単に思想の表明の手段なら、政治的な発信をする場合は演説をすれば良いのでは?と思うのです。 

これには賛成です。僕もそう思います。また、自分の作品がそうはならないように気をつけたいと思っています。

>これは昨今の右傾化によってごく最近出てきた現象だと思われます。

僕はそうとばかりは思いません。僕の念頭にあるのはネットメディアでの意見表明というよりは単に選挙結果です。たとえば石原慎太郎みたいな人については強い批判がある一方で、現実問題として何度も都知事選に圧勝しているわけですから、支持する層にも支持すべきなんらかの理由があるんじゃないか、と考える必要があると思うんです。

>広田さんは演劇を観る以前に、政治的リテラシーを観客に求めるということでしょうか。

ええと、もちろん主権在民みたいなことを考えればまったく無関心でいいとは思いませんが、もっと政治に関心をもつべき! みたいなことは個人的にはそんなに感じていません。それぞれ興味関心はあるでしょうから。だから野田さんの『エッグ』にしても多くの人が単におもしろい舞台としてあの作品を受け止めてもそれはそれでいいと思います。ただ、ある程度しっかりした疑問の声というのが挙がってしかるべき作品だったと思うんです。多分、野田さん自身にしたって「問題作」を作ったわけですからあんまり当然に肯定されてしまうと拍子抜けだったんじゃないかな、と。誰かがちゃんと言わないとなー、と観た当時からずっと思っていたので(いや、もちろん反論が皆無だなんて言うつもりはありません!)、ようやくそれを書けました。事実認識が怪しい部分についてはちゃんとまぜっかえす人がいる、という状況が健全なんじゃないかと思います。
  • ヒロタ
  • 2014/02/06 1:53 AM
>板垣陽太さま

コメントありがとうございます。
なかなか難しいことですね……。他の方からも質問をもらったりしましたが、僕は必ずしも現代日本の思想状況を認識する上で「左翼」という言葉も「ネトウヨ」と同じぐらい意味の無いレッテル言葉になってしまっているようにも思うのです。事態はいろいろと複雑なものでしょうから。

ただ、僕はたとえばデモのような形で声を上げることもまた自由でいいんじゃないかと思います。つまり、デモに行かなくてもなんら政治的に良心の呵責を感じる必要は無いのだと思います。静かに冷静に分析することも政治への対応として決して誠意の無いものではないはずですから。つまり、政治的主張がある人がデモをするのは結構だが、政治的主張が無くてもいい、と思っています。ま、先日、演劇は政治的であることを免れ得ない、なんて書きましたが自覚的に誰もがそうするべき、ということを思っているわけではないのです。
  • ヒロタ
  • 2014/02/06 2:01 AM
「反体制」「体制側」「保守」「左翼」「右翼」というレッテル自体がもうかっこ悪いからやめたほうがいいと思うのです。 いい加減色あせすぎていると私は思います。 意味が無い。 個々の事象に対して、公正に情報を集めて、自分で考えて自分で個々に判断できる時代が来ております。自分の見たい聞きた情報だけ集める人が多いし、そうなってしまうのは私も含めて、人の性だと思いますが、かつては権力者しか手に入らなかったような、「情報」という宝物が手軽に手に入る時代なのですから、柔軟に情報を集めて、個々の事象の本質を穿てる人こそがカッコイイと私は思うのです。そして、芸術はかっこ良くあるべきだと思うので、陳腐な使いふるしのレッテルとはもはや相容れない時代になっていると私は思っております。
  • 三枝 歩
  • 2014/02/07 9:51 AM
おっしゃること、ごもっともだと思います。僕も右翼とか左翼とか単純に割り切れる時代ではないと思いますし、レッテルを張って誰かを批判てしているつもりはありません。この文章でも特定の主義主張をレッテルで振り分けて批判を展開しているわけではありません。厳密に言えばもちろん「カッコイイ/ワルイ」も随分歴史のあるレッテルですから、人間が何かに価値判断をつける以上、そういった言語から逃れ切ることは不可能と僕は考えます。
  • ヒロタ
  • 2014/02/07 10:09 AM
先ほどコメントをさせて頂きました、三枝と申します。つい、facebookの様に、投稿者の情報が自動的に分かるような気持ちになって、自己紹介も無くコメントをしてしまいました。失礼致しました。
私は、NYにて舞台照明デザインをやっております。この記事を友人がfacebookでシェアおり、興味深く読ませていだきました。
  • 三枝歩
  • 2014/02/07 10:17 AM
ご自身の歴史的知識のなさ、読解力のなさを作者のせいにするべきではないのでは。左翼運動、労働運動の果たしてきた役割も知らずに、安易にリベラルな政治表現を批判するのは危険とも思いました。

また、そもそもどんな表現も政治性をまぬがれることはないはずです。ベンヤミンも言っていますが。
  • SS
  • 2015/02/23 5:29 PM
エッグがNHKで放送されているのを少し見て怖くなって部屋を出ました、故に途中から途中までを流し見した程度なのですが相当偏った思想を感じました。(ワザとかもしれないですが)

見ている人達へヒステリックに訴えかける言葉の数々、極端なほど無責任で身勝手な発言をする悪役…

演劇界隈は左翼的というのを最近知ったのですがココまでとは思いませんでした(全部が全部じゃないのでしょうけれど)

「過去から逃げる」や「望遠鏡を逆さに持って」などなど印象深いセリフが多かったです、戦時中の人々を悪役として描き今見ている現代人にバトンを押し付ける…「お前達はどうだ?」と、脅迫的で罪悪感や嫌悪感を煽るやり方は賛同しかねます。

テレビやラジオ、新聞に雑誌…それに演劇
情報や思想を見せるのが仕事であるのでしょうけれども極端な偏りは恐怖を感じます、演じている役者の思想に強く影響するし見ている人達に対しても同じく作用する筈です、洗脳的とも言える見せ方に苦言を呈する人が現れるのは個人的に安心出来ました、ありがとうございます。
  • エッグ
  • 2016/01/25 4:18 PM
演劇人にもこのような考えの持ち主がいらしたことに感銘を受けています。実にバランス感覚に富んでおられる。様々な葛藤の中で、敢えて苦言を呈している姿には敬意を表したい。

私はジャンルは違って、アナウンサーをしておりますが、表現者たるもの、広田さんのようなニュートラルな立位置が必要であると思っています。様々にご苦労も多いかと存じますが、益々のご活躍をお祈り致します。
大学で演劇を学んでいる学生です。
野田秀樹「エッグ」についてですが、おそらくこの作品に関する広田さんの見方は、いささか単純な見方であるような気がいたします。この作品における大戦中の描写、731部隊の存在に関して、これが本当にあったかなかったかは大して重要でないように思います。野田秀樹自身は731部隊が実在するかといったことを議論することも、断定する気も恐らくないでしょう。むしろこの作品の焦点は「あったかもしれないし、なかったかもしれないこと」のはずです。ここで重要なのは寺山修司をなぜ盛り込んだかです。寺山の思想は虚構によって現実を変えることです。そこには偶然性や情報といったキーワードがでてきます。彼は、過去は変えられること、実際になかったことも歴史のうちである、といった考えの持ち主です。そして何より彼の思想の中核は、一つの歴史、イデオロギーによって、排除され、忘れ去られた「救われない魂の呼び声」に耳を傾け、それを虚構によって(演劇によって)、現実にもう一度呼び戻し、もう一つの現実を作り上げることでした。ゆえに正しい歴史観に代表されるような一つの歴史ではなく、あったかもしれない歴史「可能世界」から、その亡霊たちを呼び出すことで、現実現在を生きる日常の私たちの意識を覚醒させることが目的でした。寺山の演劇の思想が、まさにあったかもしれない歴史、忘れ去られた名もなき者の声に耳を傾けることで、惰性的な日常から人々を覚醒させ、現実世界の変革を試みたのです。今風に言えば「拡張現実」というやつです。ですから日常に劇場空間を立ち上げる試みを寺山はしてきました。
エッグに話を戻せば、あったかもしれない歴史、忘れられた魂を「虚構」によって目覚めさせること、言うなれば二項対立の単純な見方に寄与しないのが、野田秀樹流、もしく寺山流の演劇観だと、この作品で極めて「演劇」のありかを主張しているように私は思います。
だからこそ震災以降の原発賛成反対、安保問題、右翼か左翼、などにおける単純な二項対立に寄与しないこと、寺山の言葉を借りれば「政治だけを主人にもった演劇」を回避することが野田秀樹においても、この「エッグ」における立場表明でしょう。野田秀樹はあえて誤解を恐れずに、誤解されやすい問題を扱ったのだと思います。なぜなら分かる通り731部隊を扱えば、実在した、しなかったの議論になってしまうからです。ですが、現にそういった批判はおきなかった。大方の人が、野田秀樹が「あったかもしれない」という前提と、それをまさに「虚構であること」を通して描いていることを理解したからではないでしょうか。現在を生きる我々には、実証不可能な歴史の問題がある。ゆえに寺山は過去を虚構ととらえ(それは決してなかったことを意味しない)、現在または未来の人間に現実を変えうるボールを投げかけたのだと思います。恐らく野田秀樹はそれを熟知した上で、寺山修司という固有名を呼び出したのだと思います。

下手な文章で失礼しました。
  • ヨネカワシュンスケ
  • 2016/02/21 8:17 PM
>服部 陽介さま

コメントありがとうございます。はい。これからもあれこれ、折にふれて意見を出していけたらな、と思います。ありがとうございました。

>ヨネカワシュンスケさま

コメントありがとうございます。おっしゃっていることに大いにうなずける部分もあったのですが、しかし、ヨネカワさんのご指摘は僕の問題意識と少々ずれているようにも感じました。おそらくヨネカワさんは野田さんの創作家としての心情、創作意図に寄り添って意見を述べておられる。どのような意図で野田さんが寺山修司の名前を出したのか? そういった創作意図を斟酌して彼の表現をあくまで純然たるフィクションの枠内のものとして、歴史の議論とは切り離した場所で擁護なさっているのだろうと思います。その立場はとてもよくわかりますし、実際そういった創作意図を持っていたのだろうという予想については、僕も賛成するところです。

ですが、少し反論させていただきたいのですが、はたして観客はあの作品をそう受け止めたでしょうか? 「731部隊の存在に関して、これが本当にあったかなかったかは大して重要でないように思います。」とヨネカワさんはお書きになった。しかし、僕はそんな風には思いません。また、多くの観客にとってもあの部分は、虚構ではないことこそが大変重要になっているだろうと思うのです。『パンドラの鐘』において、架空の「葬式屋」の物語と、実際にあった原爆の投下という事象が、並列されながら進んでいくことが重要な作劇の方法であったのと同じくように、『エッグ』においては「エッグ」という架空のスポーツと、実際にあった「おぞましい人体実験の数々」という歴史が並列されることが、どうしても必要なモチーフになっていたのではないでしょうか。僕は、そう思います。そして、そう誤解する人が沢山いるだろうと思います。それに対して僕は異論を挟んだのです。やはり「エッグ」において、731部隊の行為はフィクションであってはならなかったはずです。というのも、「エッグ」という架空の競技と、ガンダムの1年戦争のような架空の戦争とを二つ並べてみても、やはりあの作品の意図とは大きくズレてしまうでしょうから。

ヨネカワさんは、野田さんが寺山さん持ちだした理由について考えてみる必要があると述べ、寺山さんの芸術意図の中核が「……一つの歴史、イデオロギーによって、排除され、忘れ去られた「救われない魂の呼び声」に耳を傾け、それを虚構によって(演劇によって)、現実にもう一度呼び戻し、もう一つの現実を作り上げることでした。ゆえに正しい歴史観に代表されるような一つの歴史ではなく、あったかもしれない歴史「可能世界」から、その亡霊たちを呼び出すことで、現実現在を生きる日常の私たちの意識を覚醒させること……」だとお書きになりました。それはそれである程度納得のいく議論です。そういった観点を彼がもっていたことは確かだろうと僕も思います。しかし、そうであればなおさら僕は「エッグ」における野田さんの創作は不徹底ではなかったのか、と思わざるを得ないのです。

『エッグ』という作品は確かに「あったかもしれない歴史」を野田さんの想像力によって編み直した作品であるようにも見えます。声なき声を拾いあげた作品であろうとも思います。しかし、多くの731部隊に関する記述は野田さん自身による実証研究と想像力によって産み出されたものでは無いと思うのです。「エッグ」という架空の競技は、たしかに野田さんの想像力を縦横に駆使してお描きになったのでしょう。ですが、「731部隊」に関しては、おそらく森村誠一さんの書いた、あまり歴史的にも科学的にも信用しがたい著書などを参考にして書いたように思われる。そういった信用ならないソースから出た情報を、「歴史的事実らしきもの」としてふんだんに盛り込みながら書いている。これは事実でしょう。その態度の中に僕は、「これが史実であるかどうかは大して重要ではない」というスタンスをまったく感じませんでした。

あの作品を観て、それまで731部隊についての複雑な議論を踏まえてこなかった観客は、何を思うでしょう。到底、その文脈が理解できるはずはなく、単純に、「ああ、こういった歴史的事実があったのだな」という誤解を誘発するだけではなかったでしょうか。あの作品には、「731部隊がやったとされることの中には、誇張もあるのではないか?」というもう一方の側の「声なき声」がすっぽり抜け落ちてしまっている。意図的に、脱落させられてしまっている。そこが大いに僕が危惧した点です。あれを観て僕の知り合いは「なんだかよくわかんないけど、日本人は悪いこといっぱいしたんだなー、ごめんなさい」といったような、なんのオリジナリティもない感想を抱いてしまっていました。それは「あ
  • ヒロタ
  • 2016/02/23 6:50 AM
ったかもしれない歴史」を召喚する、などという行為とは程遠く、戦後の日本を覆い尽くしたうす甘い反戦平和物語の再強化に過ぎないのではないか、というのが、僕の問題意識の核心です。

寺山修司を持ちだしたことの意味を考えるべきではないか、というご指摘もよくわかります。が、そのような文脈をフランスの観客たちは共有できたでしょうか? 現代の日本の観客たちのどれほどの人たちがその文脈を共有できたでしょうか? 僕は疑問です。予想の域を出ませんが、もしかするとフランスの観客たちは寺山修司の名前を知らず、単純に「ガス室」というキーワードに反応してアウシュビッツや、ホロコーストの記憶とあの作品を結びつけ、「日本軍にもアウシュビッツがあったのか!」という「誤解」に至ってしまったのではないでしょうか……。そして、いったんそういった「誤解」を美しさと感動の最中で味わってしまった人間に対して、「いや、あれは史実ではないんですよ」と主張してみても、「とにかく日本人もホロコーストをしたんじゃないか!」というような単純化に巻き込まれていってしまうのではないでしょうか。もちろん、そういった単純な理解をする人ばかりだとは言いません。複雑な現象を慎重に理解しようとしてくれる観客もたくさんいるでしょう。ただ、恐ろしいほどの単純化に巻き込まれてしまう危険は確実にある。その危険性について、演劇界の誰も指摘しない。それはちょっとおかしくはないですか、と僕は言いたいのです。それなりの批判の中でこそ問題作は問題作足りうるわけで、あそこまで危ういことを、危うい筆致で語ってしまった作品に対して無批判のオールオッケーみたいな空気で受けとめるこの国の演劇を取り巻く言論状況は、やはり僕にとってはかなり気味の悪いものなのです。
  • ヒロタ
  • 2016/02/23 7:07 AM
初めまして、演劇好きの通りすがりのわたしです。
エッグをテレビで拝見し(野田さん、公演を直接観に行けず申し訳ありませんでした…)同じように疑問を持った者です。

まず、疑問として挙がったのはここでも意見が交わされておりますように
〔世蕕に架空のスポーツ・人物等を扱っておりながら、実在の歴史的事実として符合する具体的な事柄、年号、名称等を織り交ぜる意図とは?
∋山修二の遺書のように示唆され遺された戯曲を野田秀樹さんが独自の解釈で舞台化させる、という架空の舞台設定を敷いた、なんとも回りくどい方法を敢えてとったその意図は?
という二点です。

,砲弔い董↓爐覆式貔擇魏誘の材料で料理しなかった瓩里任靴腓Α
出来上がった料理(エッグ)は現実のものではありません。しかし食材には歴史的な事実と、そうでないものが一緒くたに扱われています。
数々の舞台作品を世に送り出し、業界で評価を得てきた野田さんがそのようにしたということは、何らかの意図によって、敢えてそうしたとしか思えないわけです。
しかしその意図がどうもわからない。これは単なるタイムスリップの冒険活劇だろうか?時を越えるSFもので、人物のドラマにスポットを当てた作品なのだろうか?現実と虚構を対比させようとしたのだろうか?
観賞後の印象は否です。日本の歴史の中に位置づけられた満州国建設と戦後満州からの撤退までに起きた国家的陰謀に主眼が当てられており、そこでアメリカや旧日本陸軍とどのようなやりとりがあったのか、まさに知られざる歴史の裏側を具体的に描いているからです。
もちろんそのような事実は存在しません。すべては舞台上の虚構です。しかし作中では「寺山修二はエッグという戯曲は書いていない」としか明言されておらず、その他の事物に関してどこが脚色で、どこが事実かについて最後まで明かされることはありません。もしろん爛┘奪阿倭瓦撞構である瓩般生世気譴詆措未呂△蠅泙擦鵝むしろエッグこそが現在まで日本が隠してきた秘密である、というメッセージさえ感じさせるほど。
それでは、観客はこの作品から何を汲みとればいいのでしょうか?戦争の利権に群がる人物・組織の浅ましさと卑劣漢でしょうか。利用され棄てられた人間の無念と悔恨でしょうか。なるほど、それらはこの作品において私が最も有益なものとして受け取ったメッセージの一つです。
しかし、それを描くために舞台設定は日本人や満州国である必要があるでしょうか?せめて、国名は伏せ、歴史をメインに扱うのではなく架空の登場人物の内面性や心の葛藤といった、人間ドラマに主眼を置く等の表現をしてほしかった。
この舞台では妻夫木聡さん演じる阿倍、深津絵里さん演じる苺の人間ドラマがメインだったとは思えません。あくまでエッグというスポーツを通して旧日本陸軍が密かに進めていた恐るべき計画その全容こそがこの作品の核だと感じました。

そして、こんな解釈をするのはもしかすると野田さんの作品意図に反しており、無礼千万失礼の限りなのかもしれませんが、私の印象を敢えて率直に言うならば、この舞台の主人公は犹山の遺作(架空)から、歴史の闇に葬られていたエッグを掘り起し、その(架空の)事実を舞台という形で白日の下に晒そうと覚悟を持って行動する野田秀樹さん自身瓩覆里任呂覆い?と感じました。

ここで二つ目の疑問と繋がります。なぜ、寺山修二だったのか。そして、なぜ実在の寺山の架空の遺作というまどろっこしい設定の上で、この作品エッグが送り出されることになったのか、という疑問です。
しかし私自身では答えを見つけられないでおります。それには私が寺山修二という人をそれほど詳しく知らないため具体的な考察ができないこと、野田さんと寺山の関係が掴めないことにあります。

エッグには明らかに野田さんの何らかの意図があって制作されています。しかしそれが分からないために、作品自体のメッセージ性が損なわれ、非常に不可解で違和感の残る作品として心の中に引っ掛かっているのだと思います。
正直、どう評価していいものかわからない作品といった印象です。また、海外公演は誤解を招く危険性が高いという意見には同意です。日本人ですらこの作品を正しく読み解くのは難しいのですから、海外の方が虚構と事実を日本人以上に正確に見抜けるという確証はありません。
最後に、このブログ記事により私の抱いた違和感が私個人のものではないと知れてよかったです。全ての創作物は他者からの批評・批判を経てこそ正しく理解されるものと思います。間違いなく問題作である今作がここで演劇に関わる人間によって意見が交わされることこそが、演劇という世界をより深めることに繋がると感じています。
長文お目汚しを失礼いたしました。
  • 通りすがりのわたし
  • 2016/03/05 6:53 PM
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