なぜ「戯曲公開」なのか? ※追記版

  • 2014.07.01 Tuesday
  • 09:41


先日、アマヤドリの公式websiteにて広田淳一戯曲の公開ということを始めてみました。

「おお! これはなんか新しい試みだぞ!」なんて小躍りしていたら完全に「ままごと」柴幸男さんの「戯曲公開プロジェクト」の二番煎じになっているじゃないの! ということでがっかりしたり、「いや、むしろ考えが近い人がいてこれは喜ぶべきことだぞ!」なんて欣喜雀躍していたりしたわけなんですが、ともあれ、自分としてはどんな考えでこの企画を実行するに至ったのか、その経緯を説明したいと思います。もちろん「ままごと」さんのプロジェクトと僕らがやっていることはスタンスが多少違いますから、ここで僕の考えについて詳しく書いておくこともあながち無駄ではなかろうと思うのです。

きっかけは「悪と自由」という、2014年のアマヤドリの新作コンセプトについてあれこれ考えてみたことでした。その時僕は『自由について』(佐伯啓思)という「そのまんまやんけ!」ってなタイトルの本を読んでいたのですが、その時、ふと「アマヤドリの全作品の映像・テキストをWEBにあげたろか」という考えが浮かんできたのです。電波のしわざではありません。きっと自分の中にあった点と点とが、佐伯さんの展開する自由論によってようやく繋がったんでしょう。その後、映像公開についてはあれこれクリアしなければいけない問題があることがわかりましたのでそれはいったん諦めまして、まずは広田個人が著作権を持っている戯曲の公開に踏み切ることにいたしました。

ではなぜそんな考えに至ったのか? そのもっともポエティックな理由については劇団のwebsiteに書きましたので、ここではその戦略的な意図と妄想的なバックボーンについて書いてみたいと思います。最初にくれぐれも念を押しておきたいのですが、僕はこの戯曲公開という流れが他の劇作家さんに波及していくことを望んでいるわけではありません! 僕のように作・演出・主宰という形で演劇活動をしている人間もいれば、後期のイプセンがそうであったように劇作のみに専念して活動している方もいらっしゃるわけですから、自ずと、戯曲公開という行為が持つ意味、そのリスク、弊害は変わってくるでしょうから。


◆戦略的意図について◆


【僕たちは何を売ってきたか?】

「自由」についてあれこれ学ぶうちに、僕は現代における「自由」の本質が所有権・財産権と深い関わりがあることを知りました。王様や領主様から何かを借り受けるのではなく、自分たちがそれを所有しているという事実。これが「自由」のもっとも基本的な部分であることを知りました。……と、このあたりの話をすると話が無闇に長くなりますので簡潔に言います。僕は「いやー、自由って本当にいいものですね」という考えにまあ、至ったわけです。

所有権はその延長として、人々に商売の自由をもたらします。自分の判断で何かを売ったり、買ったりできること。これってすごく根本的なところで僕らの自由を支えてくれている権利です。独立があって自由がある。国でも個人でもその順番です。決して逆ではありません。で、考えた。いったい僕は何を売っているんだろう? と。

一口に演劇人と言ってみても演出の能力を売っている人、戯曲を書く能力を売っている人、演技する能力を売っている人、などなどその形式は多様です。僕に関しては演劇の公演を打ち、それに対して観客≒お客様にチケットを買っていただくことが経済上のメインの収入になっています。そして公演に関連して諸団体から助成をしていただいたり、あるいはグッズを販売してみたり、ワークショップを開いて参加料をいただいてみたりして、まあ、劇団の経済を回しているわけです。

上演戯曲の販売に関しては今までずっと行ってきました(今後も売るつもりです)。いわば戯曲は僕達に富をもたらしてくれる、重要なコンテンツなのであります。今年4月に行った『ぬれぎぬ』に際しては随分と多くの方に上演戯曲を購入していただきました。大変、ありがたい話です。なんせコピー用紙に印刷しただけの粗末なものだったわけですからねえ……。まさに作品の価値にお金を払っていただいたわけです。過去にはまた、自分の戯曲を気に入ってくださったいくつかの団体からお話をいただき、使用に際して上演料をいただいたこともありました。それも大切な僕の収入源です。

……ですがまあ、ものすごくぶっちゃけて言いますと、ここまでの人生で僕が戯曲のみによって稼いだ収入はごくごくわずかなものであるということも事実です。戯曲提供で上演料をいただいた経験は、片手で数えられるぐらいしかありません。つまり、僕の収入の本質は演劇公演に関してのものであって、戯曲によって得られるそれはあくまで二次的なものにすぎない、という現実があります。さらに言えば、僕はそれでいいと思っています。そりゃあ戯曲がバカ売れして大儲けできればうれしいですよ。なにせ僕は心の底からお金というものを欲しておりますので。だけどおそらく、そんなことは今後も多分起きないし、また、起きなくてもいいか、と自分も思ってしまっている。そんな経済感が僕には育ってきてしまっているのです。


【僕たちは何を届けたいのか?】

ところで、僕たちの劇団にはまだまだ国内でも公演を打てていない場所がたくさんあります。というより、ほとんど東京でしか公演を打てていないと言ったほうが正確でしょう。残念ながら日本全国をくまなく回るどころか、ほんの数カ所を回る力すら現在の僕らには無い。海外で公演を打つ手立ても目処も、今のところはぜんぜん無い。

たまに大阪や新潟の方などから「来てくださいよー、まだ観たことないんですよー」という嬉しいコメントをちょうだいしたりもするんですが、なにせ知らないんですから無闇にアマヤドリをゴリ押しするほどの情熱を持ち合わせている方もほとんどいないわけでして……。現状ではせいぜい公演のDVDでもお渡しして、少しでも僕らの活動に興味を持ってもらうぐらいのことしかできないんですが、なかなかどうして伝わらない。だって僕らの作っているものは「演劇」なんですからね。アマヤドリの活動を伝えるためにはやはり様々な場所に実際に行って、そこで公演を打つしかないでしょう。そうなんです。僕たちはやっぱり公演を届けたい。


【戯曲を「部分」として先行させる】

そこで考えた公演へ至るためのひとつの道が「戯曲公開」だったのです。まずは知っていただくことが大事なんじゃないか、と。そもそも演劇には構造的なジレンマがあります。すなわち「アマヤドリを知らないからアマヤドリを観に行かない。だからアマヤドリを知らない」という悪循環。だから最初の一回のハードルをなるべく低くしようとして今までも「タダ観でゴー!」なんて企画を継続してきたわけですが、それも関東圏の方ぐらいにしか効果が無い……。もちろんCoRich!舞台芸術のような全国の劇団の方が観てくださっているwebsiteもあるわけですし、地域での公演では大抵、様々な形で地元の方が宣伝に協力してくださるわけですが、それでもどうしても上記のジレンマからは逃れがたいものがある。

それを打破していくためのひとつの方法として「演劇」のパーツである戯曲を先発させてみよう! という考えに至ったのです。戯曲を稽古場で実際に読んでもらったり、うまくして上演してもらったりなんかすればですね、僕たちの作った「演劇」がDVDよりもずっと望ましい近い形でどこかの誰かに届くんじゃないかと思うのです。なにせそこでは生身の人間が「演劇」を立ち上げてくれているわけですからね。そのことはきっと作品の発信源である僕たちへの興味にも繋がるんじゃないかと思うんです。そりゃあ「なるほど、つまらん」と言われてしまえば元も子もないわけですが、それでも、戯曲の持つ宣伝/広告効果は、おそらく僕が現在得ている戯曲による収入によるそれよりも、はるかに大きな「利益」を劇団に、また僕個人にもたらしてくれるんじゃないだろうか……。この思いが僕を戯曲公開に踏み切らせた大きな要因です。だから僕はその戦略を選んだ。


◆妄想的バックボーンについて◆


【「無料」が破壊するもの】

現代ほど無料で多くの情報が手に入る時代はかつてなかったでしょう。僕たちはここ数十年でインターネットなんていうものを手に入れたわけですからね。今日では、著作権が切れた多くの文豪たちのすばらしいクオリティの作品が、なんと無料でダウンロードできて読めてしまうのです!(参考:青空文庫

もちろんそれは文学の世界に留まることではありません。音楽の分野でもSoundcloudなんてものがあって著名なアーティストから無名なアーティストまで、幅広く音源を公開しています。ここで気に入った楽曲をitunes storeで購入することもできるようになっていて、音楽で経済を回すための窓口としても機能しているのです。

さて。現在、違法も合法も含めてテキスト、音楽、動画、ゲームなど、さまざまなコンテンツが「無料」で手に入る世の中になりました。しっかり著作権によって保護をしなければ「知的財産権」なんて概念ごとあっという間にどこかに吹き飛んでしまうんじゃないかっていうぐらい、とんでもない勢いで「無料」のコンテンツが僕たちの周囲を取り巻いています。

その流れに便乗して時代に媚びて、本来お金をとってしかるべきである戯曲という作品を「無料」の渦の中に放り込んでしまっていいのか? そういった危惧もあるでしょう。僕が上演の権利まで含めて「無料」としたことによって、多くの他の劇作家たちの戯曲の価値をも貶めてしまう危険性もあるでしょう。「ああ、戯曲ってタダなのね」と思われてしまっては、戯曲は売れなくなってしまいますし、上演料も支払わないのが当たり前になってしまいます。そうなれば、普通に上演料を取る方が「ケチ」などと言われかねない……。それは間違いなく劇作家の生活を困窮させ、ひいては日本の演劇界に打撃を与えることになるでしょう。僕の行動はそういった危険性を孕んでいます。そのことは一応、自覚しているつもりです。


【「無料」がもたらすもの】

僕は未来のことについて妄想するのが好きなので、執筆の際にもそれ以外の時にもいろんなことを考えてみるのです。いったい世界はこれからどうなっていくんだろう? 人類ってどうなるの? 宇宙って、終わるの? とかね。妄想は尽きません。

僕がアホなりに未来のことを想像してみるに、おそらく今後、戯曲の上演料で劇作家が食べていくことはますます難しい世の中になっていくように思います。本が売れない、CDが売れない、新聞が売れない、そういった現象が暗示しているのは「情報」をそのままの形で商品と見なす時代の終焉が近づいているんじゃないか、ということです。それをパッケージングして、なんらかの価値を付与する手続きを踏まなければ商品にはならない、そんな時代になってきているのではないでしょうか。まあ、ここでいきなりヴァルター・ベンヤミンだとかマクルーハンだとか言い出してもいいんでしょうが、そんな学術的な話でなくても、ここ数年の日本のオリコンチャートが誰によって上位を独占されているか、その戦略とは何か、と考えていただければご理解いただけるんじゃないかと思います。多くの人がコピー可能な情報には商品としての価値を見出しにくくなっている、現代ってのはそんな時代なんでしょうし、未来はきっと、もっとそんな感じなんじゃないかと思うのです。

でも「演劇」は廃れません。4Kテレビが安価に手に入るようになればハイビジョンテレビは廃れるでしょうし、もはやMDとかVHSなんてものはその役割を終えてしまったようにも思えますが、ええ、大丈夫です。「演劇」はどんな高性能カメラよりも高精細ですし、何よりも、空間と時間を扱う芸術なのですからそれは容易にはコピーされません。たとえば公演映像を動画サイトにアップしても(「範宙遊泳」さんが一作品まるごとアップされてましたね)、時間と空間の共有を前提として創りだされる作品の価値は一向に崩されません。だから僕は、むしろこれからはますます「演劇」の時代なんじゃないかって思っているぐらいです。

ただ、3D映画とプロジェクション・マッピングとアンドロイド技術が融合するような形での「映像表現」が確立されて、技術面でついにいわゆる演劇というものの特権が脅かされる時が来るとは思います。私たちの認知能力をもってしては、もはや実際の俳優とアンドロイドとの区別がつかなくなる日もきっと来るでしょう。そうそう、先日、チューリング・テストに合格(?)したプログラムがついに誕生したとかいう話も聞きますしね。観ている人をもらい泣きさせるような、すばらしい演技をするアンドロイドも遅かれ早かれ登場します。その時、「演劇」に何が起きるのか? それはまだわかりません。ワクワクしますが、少なくとも、ここ5年でそういった時代が来ることはないでしょうから今はそのことを脇に置きましょう。


とにかく、人間の持つ複製技術はどんどん進化し、複製可能な情報の商品価値はどんどん失われていってしまっている。それが僕の現状認識です。


【戯曲の消費期限】

劇作家の戯曲にはもちろん固有の著作権があります。ですがそれも数十年を経てしまえば青空文庫に無料で陳列される時が来ます。商品としての寿命はそこまでです。もちろん物理ベースの情報への需要、つまり本という形式の持つ商品価値はそう簡単には消え去らないでしょうから、戯曲を買う、人はいなくならないと思いますが……。

さて。以上のように戯曲が単独で商品価値を持つ時間は短く、そして無料の戯曲は年々増えていく。そんな状況があります。劇作家が上演料を得るためには「それを払ってでも上演したい」と判断されなければいけせまん。当然、そういった高い商品価値を持つ戯曲は今も一定数ありますし、今後もなくなることはないでしょう。

けれど一方で「本当は誰それさんの戯曲をやってみたいんだけど予算の少ない公演だし、今回は無料の戯曲の中から選ぼう!」と判断する演劇人も多いのではないでしょうか。しかも、そういった人たちの選択肢は年々広がっていく。青空文庫が充実すればするほど「無料」の棚はどんどん豊かになっていくわけですから。その中で使用料ありの戯曲をどれだけの人たちが上演できる立場にあるのか? あるいは、そのような状況の中で勝ち抜けるだけの商品価値を自分の戯曲が本当に持っているのか? ……うーん、怪しい。かなり、怪しい。

僕だってそりゃ自分の作品がつまらないとは思っていませんが、並み居る歴代の劇作家と並べてみて自分の戯曲がそれほど特別な価値を持てるとも簡単には思えない。おそらく、僕の作品が著作権を失効して無料の棚に並ぶころには、僕の作品はその価値の大半を失ってしまっていることでしょう。
そもそも日本には古典を上演するという気風がヨーロッパほどには育っていないようですから、古典作品になってしまった自分の作品はその点でも分が悪い。

僕が生きている間は使用料の問題で無料作品との価格競争に破れ、僕が死んでしばらく経ってからは時代の風雪に耐える強度が無ければ完全に忘れ去られてしまう……。これはしんどい戦いです。しかも僕が生きている間に存在する問題は何も金銭だけのことではなく、その交渉過程の労力なども含めた諸問題をクリアした上で上演しなければいけないので、必然的にある程度以上の規模の公演でしか取り上げられないことが予想されます。要するに、全国のさまざまな場所で行われている公演のうちで劇作家に対して戯曲使用料を支払う余力のあるカンパニーはごくわずかだろうということです。


冷静に考えてみて、僕の作品が一番どの時代に対してビビットな価値を持っているかと言えば、今、この時代でしょう。「俺の全盛期は今なんだよ!」てなもんです。だから僕は、僕の戯曲を今、上演してもらいたい。それはアーティストとしてのエゴです。迷惑に感じる方もいらっしゃるでしょう。そのための方法が「無料公開」しかないの? とおっしゃる方もいるでしょう。それでも、僕だって僕の生活の大半を賭けて「演劇」を作り、戯曲を書いているわけですからね、なんとしても自分の作品をより多くの人に届けたいわけですよ。もちろん「無料」なんかじゃなくて、そりゃあ儲けたいですよ。けれども、それよりもなお劇作家としての自分には意地汚くも獲得したい「利益」があるようです。うう、難しい……。戯曲の使用料を取ることはなんらやましいことだとは思いませんよ! むしろ当然のことですから、そこは誤解しないでくださいね。

とにかく僕は、今、多くの人へ届けるために戯曲の公開という戦略を選び、上演料も無料でよい、ということを選びました。そうです、だからもちろん「上演料を払いたい!」という方の意志を退けるなんて、そんな失礼なことはいたしません。お金を取るだけの戯曲を書いている、という自負だってあります。ま、しかし……そのお金は本当に僕が受け取るべきお金か? という疑問もあるのですがね。それを次に書きましょう。ひとまず、戯曲を単独で売っていくことはビジネスモデルとしてもはや成立しないのではないか? そ
んな予感が僕の妄想的なバックボーンとでも言うべき、この企画を実行に移した理由です。


【誰にお金が行き渡るべきか?】

僕は劇作家です。演出家でもありますし、劇団主宰者でもありますし、合同会社プランプルの代表社員でもあります。ですが、何よりもまず、劇作家でありたいと願っている人間です。ですから本来ならば劇作家が劇作を通じて得られる利益をこそ最大化したいという思いがあるのです。

ですが演劇創作の現実を多少なりとも知っている人間として、演劇の現場で誰が一番お金をもらっていないのかについてもよく理解しているつもりです。ええ、俳優です。「演劇」というコンテンツの核心でありながら、もっともその活動が経済に結びつかないのが俳優なのです。これは大変奇妙なことですが、特に小劇場演劇においてはゆるぎない事実と言ってよいでしょう。さて、ここで思いっきりいい人ぶってキレイ事を言いますが、僕は自分の戯曲に使用料を払って俳優にボランティア出演をさせるぐらいなら、そのお金は俳優にやってくれ! と言いたい。だって僕はその「演劇」が立ち上がる現場にいないんだもの。そりゃ、僕も受け取っていいと思うけどさ、それよりもっと先に受け取るべき人がいるでしょうよ、というね。

俳優がお金をもらえない。これは僕も常に何度も歯がゆい思いをしてきた演劇界の大きな問題です。なんとかならないか、と思っても簡単な解決策は見つかりません。今まで僕も多数の俳優、劇団員たちが経済的な理由から辞めていくのを止められなかった人間です。だから「演劇」を立ち上げる現場でまさに戦っている俳優たちにこそ、少しでもギャラを支払って欲しい。そういった思いがあります。

「演劇」をお金に変える方法についてまじめに考える。それは卑しいことではないし、とても真っ当で、そう、なにより「自由」なことです。だから「演劇」の現場に一人でも多くの方に足を運んでいただき、現状ではとても複製不可能なこの芸術の持つ圧倒的な豊かさを体験していただきたいのです。そして、本当にいい「演劇」を作っている人間が経済的な理由でそれを辞めることが少しでも減ればいい。

僕のやっていることがむしろ劇作家の経済を壊すことであり、演劇人の自活を阻害するものであると判断したら、その時点で戯曲公開はやめます。僕も何が本当に正しいのか、時代がどっちに進んでいくのか、わかりません。でも、せっかく思いついたんだからやるだけやってみよう。これが現在の僕の考えです。

ふー。最後まで読んでくださったあなたは本当にえらい! どうもありがとう。

 

『きょうの猫村さん』といらちのトイレ。

  • 2006.05.19 Friday
  • 07:25
以前人から薦められてた『きょうの猫村さん』を読む。
すべての事件が並列的な世界観にあきれるような驚き。
なんとなく草野たかこを思い出す。

その後、役者の泉と食事。近年は男性と2人きりのほうが女性と2人きりより余計に緊張しますな。なんなんでしょうこの心理は。このまま歳がゆけば俺、おばちゃんになってしまうんじゃないかしら。彼の勤務するイタ飯屋にて、甘口ワインのフルボトル、ソーセージの盛り合わせにレッドアイ。ちょっと酔いました。


にしても自分のせっかちも大概だな、と思います。上方で言うところのいらちっていうヤツです。何をするにもじれったいんですね。
尾篭な話で恐縮なんですが、トイレに入って小用を足してますでしょ。自分が排泄し終わるのを待ってることがじれったいんです。暇じゃないですか、その最中って。で、すべて出し切るまで待てない。どうするか。水を流してしまうんです。、まだしているのに。で、水が流れる終わる前にこっちもなんとか終わらせなくちゃ、と焦る。のが好きなんですな。

これはホント、急いだ時の方が急がない時よりスピードが落ちる好例です。し終わって結局もう一度水を流したりしてね。たまに連続して流せないトイレだと水が溜まるのを待ったりして。溜まりきる前に流しちゃって更に中途半端な形になってまた時間がかかったり…。何をしているんでしょうね。そんな今日この頃でございます(枝雀風)。



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