パフォーマティブな劇評の試み、その1、『荒野に立つ』

  • 2011.07.17 Sunday
  • 11:20
『荒野に立つ』を観てきた。
ネタバレしてるかもしれませんので、ご注意を。










といったものの実は大して感想はないのよね。
そうかそうか、とかそれぐらいのことしか思わなかった。なんだかこっちの感性がにぶっているのかしら? 間違いないな。急なお通夜がその後に控えていたので喪服で観劇なんかしたのが悪かったのかしら? それもあるな。モヤモヤそんなことを思いながら出てこない感想をひねり出して書いてみよう。何か、ヒントのようなものがあったような気もする。

うつらうつら、というよりは、ふと全く関係ないことを考えている自分を劇場で見つけることしきりだった。これはこれで劇場での有意義な過ごし方なのよね〜、なんて思いながらメモを取ったり観客席を眺めたりしつつ、どうにも集中できない。テンポが遅いんじゃないかしら? などと思う。

ゆっくりした演技が続き、しかもとても静かなシーンが続くので当然、緊張感は高い。が、俳優の身体がしゃんとしないので場が持たない。成立しない。もちろん持っている場面もあるのだけど、キレイなひょろひょろしたお姉さんたちが筋肉のない身体をフラフラさせていたのでは、あの空間は支えきれないのではないだろうか。ああいった何もない舞台を支えるには何らかの工夫がいる。俳優の肉体か、テンポなんじゃないか、などと思う。ホントかな。でもまあ、とりあえす、「荒野に立つ」には、そのどちらもなかった。

しかし、おそらくそれらの「必需品」は意図的に欠損させられたようだった。どこに長塚さんの狙いがあるのかはわからないが、何らかの意図をもってテンポよく物事が進むことは厳しく拒否されていたし、あまりにも不用意に俳優はヘロヘロの身体を晒した。停滞する時間の中に長塚さんが何かを見出そうとしたことは明らかであったが、その、見出そうとしたそれが何なのか、そこを感じることができなかった。のだと思う、私は。

たとえば、巨大なプールに水彩絵の具のしずくを垂らして、その拡散していく色彩をスローモーションで撮影して眺めてみるような、そういう楽しみをあの舞台上に見出せばよかったのだろうか? そんな風な意図があったようにも感じた。が、そのためには絵の具(俳優)がちゃんとした絵の具でなければイカンのじゃないか、などと思う。

素直に感想を言えば、難解な戯曲だった、ということになるのだろうけど、その難解さというのもある程度、長塚さんがわざわざ難解にしたものだったようにも思う。韜晦とでもいうのかしら、いや、もちろんわかりにくくしよう、という意図ではないとは思うけど、少なくともあれは「よくある戯曲」ではない何かであった。

そして、俳優よりも戯曲が全面に出る舞台になってしまっていた。ああいう戯曲こそ、俳優が前に出てこなければいけないと思うんだな。んー。というのは、意味を考えても面白くない戯曲だから。意味の向こう側に観客を連れて行くことが彼らの狙いだったはずではないか? と思うと、戯曲が前面に出るべきじゃない。そんなものは背景で十分。が、そうはならなかった。うむ。なんでやろ。

好意的な言い方をすれば、いわゆる普通のストーリーからあえて逸脱していこうとする冒険心、野心をもった戯曲だったということができる。とはいえ、その表面上の難解さとは裏腹に戯曲が描こうとする対象そのものは極めて現代的かつ、等身大的な何かであるようにも思われ、そこに難解さは全くなかった。なんか理解しやすい分、そのあたりに捕まってしまったのかもしれない。何が? 私の自由な空想力が。

要するにあそこで描かれていることは「現代日本における不器用な女の生きづらさ」とかそういう題材だったと思う。そして、それに関しては、そうかそうか、と思った。同意できることは多かったがなんだか納得させられてしまった感じがした。つまり圧倒されなかったということ。ああ、僕は圧倒を求めて観劇しているのだな、なんちゅうことを観客席に座りながら思う。それは大音響とかそういうことを言ってるわけじゃあ、まさかなくて、どんなベクトルにせよ、舞台にいるからには圧倒されたいと思っているのだよ私は、ということ。絶対的な瞬間とか、圧倒的な力とか、ありえない説得力とか、なんだかそういう強烈なものを舞台に求めている。はたして先日の私のリーディングにそんな力があったか? 怪しいな。いや、はっきり言おう。そんな力はなかった。納得はさせたかもしれない。しかし圧倒はできなかった。欲しいのはそっちなのに。

観客席を震わせるような共振させてくれる何かを求めているんだよな〜。そうなんだよな〜、なんてことを思いながら観客席でペットボトルの水を飲む。のどが乾いた。

「荒野に立つ」の戯曲は、難解なように見えて実は一本線のような構造になってしまっていたんではないか、と思う。それは書かれている内容が論理的に常に整合性が保たれていたままだったという意味だ。描かれている内容そのものは超現実的なものだったりしたのだが、その語り口は大変論理的であったために、話の整合性ばかりが目立ってしまった。「あさり」や「目玉」のメタファーは自由な広がりをもっているように見えて、結構、まじめな分析を求められているような息苦しさがあったのではないかとも思う。意味を見つけることを強いられる、という感覚。

あのあたり、もっと放りなげてくれればこっちもぼんやり考えるのになあ、とか思いながら私は十分ぼんやり考えていたのだから、これはこれでよいのかもしれない。私の反応もまた、彼の狙い通りの反応のひとつなのかもしれない。俺って落ち着きがないからとなりの人に迷惑かけてるよなあ、すみません、とか思う。

しかし、なんだか釈然としないものが残る。というかあれだ、何が一番興奮しなかったかといえば、あのセリフを俳優が言えてなかった、ということだ。ああ、それだわね。言えてない、と思ってしまったのだ、全然。はじまってすぐ。最後まで。

誰がうまいとか下手とかそういう俳優の技術の問題ももちろんあるのだろうけど、当然、俳優間に優劣もあったと思うけど、それ以前に演出の問題として、あのセリフをあのように言わせることは無理なんじゃないかと思ったのだ。誰に何を伝えようとしているのかわからないセリフが多すぎたし、そんなものはどうでもいいメッセージじゃないんだ、というなら、その台詞が何らかの描写にすぎないとするならば、なおさら、その描写する主体がよって立つ足場が見えてこなかった。足場があればよかったのか? いや、なくてもよいんだ。足場の無さ、という非常事態に俳優を臨ませることができればそれでよかったはずだ。あたかも俳優が、確固たる足場を得たかのような顔をしていたこと、少なくとも私にはそう見えたことの中に、言えてない、という感覚の核心があるように思う。

あの戯曲に書かれていたのは、普通のセリフのようにしゃべってしまうにはあまりにも異常なセリフたちだったはずだ。そうじゃなかったかな? すくなくともそういう場面はたくさんあった。が、それらのセリフはなんとも力のない身体からフラフラと出てきた。力がある、とは筋肉のことばかりではない。精神的な葛藤、緊張感によっても力は生み出せるだろう。あの言葉が生成される場の危うさ、足場の不確かさ、を俳優がその身体で感じることができれば、もっと力は出たのではなかったか。その力が、不足していると感じた。

私は観劇中に、あの戯曲の意味がわかりにくかったので、がんばって聞いてあげた。聞いてあげないと、意味がわからなかった。しかし、わからせて、どうするのか? わかったところで、せいぜい、わかった、ということしか思えない。こっちは圧倒されたくて観客席にいるというのに。そういう舞台を作りたいものだ。圧倒。とにかく圧倒的な何かに飢えているんだな。とかそんなことを思って劇場を後にした。この思いは昔から全く変わらない。悪く言えば成長がない。

斎場につくと22時近くになっており、亡くなった婦人の三人の息子と私の父が、わざわざ私のためだけにそこで待っていてくれた。かえって悪いことをしたような気持ちがして、恐縮していると、更にお礼を言われてしまうという恐縮の悪循環。乾いた寿司とローストビーフ、小さな小龍包を食べて、帰宅。


ハイライフ

  • 2006.02.11 Saturday
  • 03:55
下北沢「劇」小劇場に流山寺★事務所の『ハイライフ』を観にいく。

実は8日に観にいったらまだ初日あけていなかったと言う大変残念な思いを越えての観劇。二度も足を運んだ甲斐のある芝居だった。

保村大和さんが特に光っていてくぎづけになる。彼を観るためだけにでも行く価値はあるじゃないか、などと不遜なことを言ってみる。

しょうもない男たちのしょうもない悪あがきを描く本作。しっかり堪能させてもらったかしら。ラスト2分はいらないようにも思える。
ごみを「掃除」した時点で終りで良かったのじゃないか? とか。





死ぬまでにしたい10のこと

  • 2005.08.23 Tuesday
  • 20:54
が、すごく面白かった。

静謐な雰囲気。
小物のかわいらしさ。
カメラワーク。
など、あれこれ素敵。


タイトルからもわかる通り(て、日本版タイトルだけど)、主人公が余命を宣告されて「死ぬまで」の時間と向かい合う、というドラマ。

伊丹十三の「大病人」なんかが、「死」と必死に格闘する葛藤のドラマ(の、果てにいかに死ぬかのドラマ)であったのに比べると、この作品は同じような題材を扱いながらもほとんど「葛藤」を見せない。

主人公に肉体的に迫る「死」はどこまでもアンリアルだ。本当に弱りきって立てなくなる前に映画は終わるし、たまに吐き気に襲われる程度で彼女は自分の身体の美しさをほとんど苦もなく最後まで保つ。

「大病人」で、三國連太郎演じる主人公が、抜け毛に慄き、繰り返される吐き気と、動悸とで、肉体的に「死」の足音をいやというほど味わうことになるのとは、全く違う「死に際」がそこには展開される。


彼女が吐く仕草はフィルムに映っても、吐瀉物は映らない。ということ。


インターネットなんかで見知らぬ人の感想をチラチラ覗いたりすると、満足いかなった人は「主人公の行動にリアリティがない」「嘘っぽい」などと感じている人が多い。

それは当たり前のことのように思える。

これは多分、リアリティとか、そういうんじゃなく、ファンタジーとしての死を描いたものだ。すごくナルシスティックな欲望によってこの映画は組み立てられている。

主人公は自分の余命があとわずかであることを結局最後まで誰にも明かさない。唯一、彼女とその事実を共有しているのは、主治医だけであって、夫にも、子供にも、恋人にも、友人にも、他人にも、誰にもそのことを打明けない。

彼女は秘密を独占することによって、世界に対しての特別鑑賞席のような視座を手に入れたんだと思う。それは永遠の命を持ってしまった人間の座っている席に、むしろ近いのかもしれない。

つまりは、「いずれは私が去ってしまう、今、目の前にしている世界」に対して、たった一人で向き合い、それを存分に味わって最高に素敵なお別れを告げる。という耽美と言うか、ナルシーというか、そういうものによってこの映画の底は支えられている。


彼女が誰にも死期を告げずに死んでいくことで守り通したものとは何か?


「役割」かな? 母であったり、妻であったり、娘であったり、恋人であったりする彼女、は昨日今日に死んだりしないという前提をもとにその「役割」を与えられている。それを守った。若しくは、そういった自分を、自分を取り囲む人々に「プレゼント」した。

当然ながらそこには、他者を理解し、理解されることへの深い諦めが横たわっている。トータルに理解されることを完全に放棄する、美学。そんなに格好よくいくものじゃない、と思う。だからファンタジーなのだと私は思ったし、「嘘っぽい」というのは、的外れの意見だと思う。

もしも、この映画のラストシーンの後に、夫や友人や母が、娘の死期が近いことを悟った上で、彼女と最後に向かい合う場面が追加されれば、ぐっと「本当っぽい」話になっただろうか? 


まとまらないことをだらだらと書いてしまった。




映画雑感

  • 2005.08.02 Tuesday
  • 07:16
いやあ、働かないって素晴らしいですね。って、定職のない人間が言っちゃうとある種のしゃれにならなさが漂いますが、でも、まあ、今年はちょっとね、時給発生している時間多すぎたよ、上半期。

てことで、あれこれ、映画鑑賞。っても、ビデオだけど。

「アンダーグラウンド」

っていうセルビア映画をぬるーく観始めたらなんだかんだ、3時間近くの大作で驚く。油断して深夜に見始めたら夜が明けた。

昔、「鼻殺げダックス」っていう芝居で使った音楽がこの映画の楽曲だったりして妙な親近感を覚えたりしつつ(って、勝手に使っといてなんだよな、それは)

で、2時間経過したあたりで話に一区切りついたんで、あぁ、終りかなーと思ったら、テロップが出てきて

「第3章」

まだやるんかい…。

まあ、正直だれることはだれる。3時間だし。疲れるわ。だ、けどね。3時間観終わった後には、なにはともあれ大作だぞこれは!! と認めざるを得ない気分になってるから力技だよ、と。

ユーゴスラヴィア独立にまつわる究めて政治的なテーマをものすごく濃い口のフィクションで(独立に貢献して死んだはずの英雄が地下で生き長らえてて、そいつらの中ではまだ独立闘争が続いている。という)味付けしてるだけで、なんとも難儀なテーマなのに、それをじっくりことこと3時間、さまざまな人間の悲哀を絡めて描ききる。ドラマが終わった後の人間まで描き切る。

さらに、全編にホーン系? スラブ系? ともかく金管楽器バリバリのハイテンションミュージックがかかりまくってて、これもまたエネルギー消費するんです。でも、ラストとか、もうね、圧巻ですよこれは。参った。

多分、この監督欲張りなんですね。この一本の中に映像美も、人情悲劇も、お祭り騒ぎも、社会性も全部入れたかったんでしょう。水中にもぐるシーンとか、観ているだけではっとするような絵もあったりで。ともあれ、満腹感のあるフィルムでした。

「ノーマンズランド」

の脚本のうまさにうなる。なぜか戦争ものを立て続けに見ることになったんだけど、これは脚本の構成力がすばらすい。

無駄がない、ってのは美しいことだとみんなわかっていてもなかなか出来ないものですが、本当に無駄が無い。これ観ました、みなさん? って誰にいってんだかわかんないけどね、1時間半ですぱっと終わるし、いわゆる観やすい映画になってるから、間口は広いんじゃないでしょうか。頼まれもしないのにオススメしたくなる映画です。

って、こんな軽口叩いてますけど、内容はボスニア・ヘルツェゴビナの泥沼の内戦を描く、というかなり、かなり、ディープな戦争もの。

中間地帯(これをノーマンズランド、というらしい)でたまたま鉢合わせした、3人の男の融和と理解と対話の可能性と、それらの不可能性とをシンプルなプロットの中で見事に書ききっていてすがすがしい。プロの仕事や、と思う。

ただ、抑制が効きすぎている、とも思えてしまって今ひとつ、作り手の顔がぐぐっと出てこないのが残念か。しかし、そんなもの求めてないよって人には心憎いぐらい後ろに隠れて出てこない作り手もまた無駄が無い。

と、ここらへんは前置きでものすごく感動したのは、これです、

「アンジェラの灰」

いやー、いいですよ。地味ですけどね。直前に「ムッソリーニとお茶を」っていう、まあ、いわゆる元気なおばちゃんものの映画を見て、まあ、いいんだけども、痒いところに手が届かない感じだったのが、すっきり解消した気分。そうそう、これぐらい何も言わないでも映画って全てが伝わるのよね、っていう悔しい思い。芝居じゃもうちょっと説明しないとできんものなー、という映画の利点、強みを知り抜いた演出。冴えてる〜。すばらしい。

ひたすら雨がふるアイルランドの貧民街を舞台としてるんですが、単純に絵がきれいなんですわ。

これはなんだろう、照明がうまいとこうなるのかしら? 日本映画にはなかなかこのクオリティーの映像って出てこないなー、といらんことを思ったり。ともかく演出が渋い。台詞がいい。あと、子供がかわいい。ケツがかわいい。1人連れて帰りたくなる肌のつや。

で、ある意味満を持して松尾スズキの

「恋の門」

を観る。

役者は松尾さんの1人勝ちな感は否めず。酒井若菜って実はすごく芸達者な人ね、というドラマで広く認知されているであろう「意外な事実」に今更直面したりはしたんですが、いかんせん、演技がぶつぎりで唐突な感は否めない。

ケラさんの映画「1980」を映画館で観たときのことを思い出した。似たような思い。「何故あんなに面白い芝居を作ったあなたがこれを?」という感じ。ケラさんのお芝居も、松尾さんのお芝居も、ものすごく好きな私としては結構、不可解。なかなか芝居畑の人が映画を撮るのは難しいのかな? と思わざるを得ない出来。ってゆーても、一本目でいきなり面白いほうが不自然てもんでしょうかね。

でも、これにはちょっと構造的な問題があるのかもしれない、と思ったりもする。

前述した「ムッソリーニとお茶を」のフランコ・ゼフィレッリ監督もそうらしいんだけど、海外では舞台演出家が映画の巨匠でもあることがままある。らしい。日本ではなかなかその移植がうまくいかないように思う。

それは例えば海外のほうが映画と演劇の関係が近くて、いいスタッフさんが舞台出の監督の元に集いやすい、とか? そういう事情があるのだろうか? 

そんな疑問を胸に、今日はもう寝ます。一日で映画を観すぎた。




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