われわれの事業と感動についてを言語化せんとする悪戦苦闘。その1

  • 2010.05.10 Monday
  • 15:50


「感動!」
とみなみは叫んだ。それで正義は、びっくりした顔でみなみを見た。
「え? な、何……?」
みなみは、そんな正義に勢い込んで言った。
「そうよ! 『感動』よ! 顧客が野球部に求めていたものは『感動』だったのよ! それは、親も、先生も、学校も、都も、高野連も、全国のファンも、そして私たち部員も、みんなそう! みんな、野球部に『感動』を求めてるの!」
「ふむ……なるほど――」と正義はしばらく考えてからこう言った。「その解釈は面白いね。確かにそういう側面はある。『高校野球』と『感動』は、切っても切り離せないものだからね。高校野球の歴史そのものが、感動の歴史と言っても過言ではない。高校野球という文化は、これまで多くの感動を生み出してきた。だからこそ、ここまで広く、また深く根づいたというのがあるだろうからね」
「そうよね! 合ってるよね!」とみなみも、興奮して激しくうなずきながら言った。「私、知ってるの。一人、野球部に感動を求めている顧客がいることを! そうなんだ、彼女が顧客だったんだ。そして、彼女が求めているものこそが、つまり野球部の定義だったんだ。だから、野球部のするべきことは、『顧客に感動を与えること』なんだ。『顧客に感動を与えるための組織』というのが、野球部の定義だったんだ!」



以上、長々と引用したが「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」よりの引用です。文中にある「彼女」というのは主人公みなみの友人のこと。その友人というのも野球部のマネージャーなわけです。

いまさら宣伝するまでもないですが現在進行形で大ベストセラーになっているこの本はとても面白い。僕がとくに面白いと思ったのはこの「感動」という着眼点で、これはまるで演劇について語っている文章みたいに思える。もっとも、僕の演劇への定義からすれば高校野球のみならずスポーツ全般は演劇の一種なので当然と言えば当然なのだけど…。

さて、舞台創作と感動は、言うまでもなく切っても切り離せないものだ。

多くの演劇人が感動を求めてこの道を志していることはまあ大まかにいって間違いない。それではどの劇団も「感動を与えるための組織」なのだろうか? そうだと思う。端的に言えば。

しかし問題は「感動」て何? という話だ。当然ながら「感動」は随分と守備範囲の広いあいまいな言葉だから舞台創作に限らずこの「感動」という言葉で組織を定義することが出来てしまう。今後のエントリーで僕は、「われわれの劇団の目指す感動とはどんなものか?」ということを考えることになるだろう。


えー、ところで。先日お邪魔した「九つ井」というお蕎麦屋の社長さんが面白いことを言っていた。料理店というものは、おいしい食事を提供することはもちろんだが、食事も含めて最高の場所を提供することなんじゃないか、つまりは最高の時間・空間を提供するのがわれわれの仕事なんじゃないか、と。

これはまさしく「感動」を提供する話ではないだろうか。「九つ井」では料理・空間・時間への満足、すなわち感動が事業の目的とされているわけだ。その話に引き続いて社長が言った言葉が、この先の議論にとっては重要なヒントになる。社長さんは言った。


あるお客様にとっては最高の照明や座席であっても、それを不快に感じるお客様もいる。それは疑いようのない事実で、つまり全員にとっての最高というものはありえない。だから、最終的には自分の信じる「最高」を提供する以外にはないのだ、と。


まったくもってその通りだと思った。一方的に「お客様」の言っていることを聞いていても「最高」には到達できないし、もちろん一方的にこちらの価値観を押しつけるだけでも「最高」には手が届くはずもない。

そこにはコミュニケーションが必要になってくるのだ。

ここらで僕はようやく観客席に座っている、いわゆる「お客様」と僕らの作る作品についての話を始めることができそうだ。
その前に一点、注目しておきたい小劇場の特徴を挙げて今回は終わろう。それは、小劇場においては顧客と企業との関係性が非常に「純粋」なものになっていける、その可能性がほとんど無限に担保されている、という特徴だ。

以前ドラッカーの引用であげた小売店とメーカーの例では、小売店の商品棚に商品が並ばなければお客様の目には触れることもない、という現実があった。
そのような環境下では多くの顧客に支持される商品が確実に残っていき、そうでない商品は姿を消す、という淘汰の原理が正常に機能するが、一方では、一部に熱狂的なファンのつくような、けれども大半の顧客には見向きもされないような、そういった商品がやがて商品棚から駆逐されてしまうという危険性もある。ある人々にとってはその商品こそが「最高」であるにも拘わらず!

小劇場では、ほとんど「お客様」の支持を集めることが出来なくても、「商品棚」から「商品」が駆逐されることはない。良くも悪くも、金さえ出せば劇場は確保できるし、作品を提示することが許されている。これはある意味でとても「純粋」なことだ。そしてある意味でとても不健康なことだ。

もちろん舞台創作に携わる多くの人と同じく、僕も「お客様」の支持を得られないような作品を作っていきたいとは決して思ってない。むしろ、なるべく多くのお客様に楽しんでいただきたいと思って作品を作っている。

その時に順序を大切にしたいのだ。なるべく多くの人に楽しんでもらえる要素をリサーチして、それをもとに作品を作るなんてことはしたくない。良いものを作って、それを売りたい。少なくとも、その優先順位を守らなければ決して優秀なサービスエンカウンター達を納得させることは出来はしない(もちろんチンケな「アーティスト性」を重んじて自閉してしまっては元も子もないのだが…)。

やはり重要になってくるのはコミュニケーションだ。「お客様」の欲求に耳を傾ける努力と、自分たちの発信したい作品に耳を傾けてもらうための努力と、両方行って初めて上演者サイドと顧客の間に双方向性が確保される。

そのようなコミュニケーションの積み上げの先にしか、企業と顧客とサービスエンカウンターが三者ともに満足できるような作品は作れはしない。

ていうかそろそろ教えて欲しいんだけど、顧客って誰のことよ?

  • 2010.05.10 Monday
  • 14:55


前回のエントリーに対してとても貴重なアドヴァイスと激励を頂戴したので、そこを立脚点にして進んでみよう。以下、AKIRAさんよりのコメント引用です。


「劇団にとって俳優(あるいはスタッフ)は顧客であるか」ということは、サービス業におけるマーケティングの考え方の中で、すでに示されています。

企業・顧客・サービスエンカウンター(顧客に接する接客要員)をそれぞれを頂点とする三角形とすると、企業・顧客の関係は「エクスターナルマーケティング」、顧客・サービスエンカウンターの関係は「インタラクティブマーケティング」、そして、企業・サービスエンカウンターの関係は「インターナルマーケティング」としてとらえられています。

つまり、サービスエンカウンターとは、劇団のスタッフ(劇団にとって外部のスタッフであってもサービスの提供側なので、「外」ではなく「内」)や俳優さんということだと思うのです。

ですから、劇団は、インターナルマーケティングとして、サービスエンカウンター(俳優&スタッフ)の技術向上と満足度向上に努めなければならないということだと思うのです。



これはかなり説得力のある整理の仕方だ。企業とサービスエンカウンターを合わせたものが僕の言葉でいうところの「上演者サイド」だと考えると、それらの関係性がかなりすっきりする(そもそも「サービスエンカウンター」という言葉自体を初めて知ったのです。こういうことがあるからブログで書くことは止められない。一緒に考えていただいたことに尽きせぬ感謝を)。


単に劇団の内/外という区別ではなく、接客の最前線に立つ/立たない、という区別をつけることは現実に即した考え方だと感じる。このことを踏まえて、改めて舞台創作における顧客と「上演者サイド」について整理してみよう。


劇団は少なくとも二種類の顧客と二種類のサービスエンカウンターを持つ。

顧客1)いわゆる観客席に座る『お客様』
顧客2)地方方公共団体や文化庁、あるいは私企業・海外の演劇関係者など、支援・助成・主催団体
サービスエンカウンター1)俳優
サービスエンカウンター2)舞美・音響・照明・制作などの外部スタッフ

俳優はちょっと変わったサービス主体だと言えるのかもしれない。レストランで言えば俳優とは、直接的に観客に触れるウエイターであると同時に、厨房にこもって熱心に料理の味を研究する料理長でもある、という立場だ。

いうなれば俳優は一人一人が自分の店舗を持つ小料理屋のおかみみたいなスタンスを保持したまま、多くの料理人がひしめくホテルの厨房に入って仕事をするようなものだ。

当然ながら複数の俳優は複数の異なる欲求を持ち、それは刻々と変化を続ける。だから劇団の方向性というものは固定的なものではありえないのだ。

よって劇団におけるトップマネジメントの仕事は本来多方向に進むべき個々の「料理人」の欲求・価値・現実に対して、ある種の方向づけをしてやることではないだろうか。


ところで、二種類の顧客のうちで僕がより重要だと感じるのは、もちろん観客席に座っている「お客様」の方だ。目の前にいる観客にとって価値のない舞台には、残念ながら価値がない。作品そのものは素晴らしいのに観客に見る目がない、という状況も現実には起こりうるだろうが、それを前提にしてしまってはいつでも自分たちの成果はぼやけたままになってしまう。

最終的な舞台の成果というものは、今日、その会場に来た観客と何が生み出せたのか? ということのみに集約される。というわけで「お客様」以上に重要な顧客は存在しない。



ここまでで「顧客とは誰か?」という問いについてはある程度の整理が出来た。本当に整理しただけだけど。修正のためにここに立ち返る日もあるだろうが、そろそろ次の問いに進んでさらにその先にある問題について考えてみよう。

問題というのは他でもない「われわれの事業は何か? 何であるべきか?」という問いである。

われわれの顧客は誰か?

  • 2010.05.02 Sunday
  • 04:14


「企業の目的と使命を定義するとき、出発点は一つしかない。顧客である。顧客によって事業は定義される。事業は、社名や定款や設立趣意書によってではなく、顧客が財やサービスを購入することにより満足させようとする欲求によって定義される。顧客を満足させることこそ、企業の使命であり目的である。したがって、「われわれの事業は何か」との問いは、企業を外部すなわち顧客と市場の観点から見て、初めて答えることができる」

以上、ピーター・F・ドラッカーの『マネジメント』より。

さて以前書いたとおり「顧客とは誰か?」という問題について、今回は考えてみたい。ちょっと疲れるね。いや、でも言葉にすることって重要だ。それが仮の結論にせよ、結論は結論であり、そこに自分の到達点と限界点が見出される。


顧客とは誰か? という問いには簡単に答えが出るようにも思える。それは観客席に座っている、お客様、だ。それは一方で間違いようのない事実ではあるが、はたして「お客様」だけが顧客だろうか。

ドラッカーは先の文章の後でこうも述べている。

「ほとんどの事業が少なくとも二種類の顧客を持つ。カーペット産業は建築業者、住宅購入者という二種類の顧客を持つ。この両者に購入してもらわなければならない。
 生活用品のメーカーは主婦、小売店という二種類の顧客を持つ。主婦に買う気を起こさせても、店が品を置いてくれなければ何にもならない。店が目につくよう陳列しても、主婦が買ってくれなければ何にもならない。」


この文章を舞台創作の現場にあてはめて言えばこんな風にでもなるだろうか。

「劇団は二種類の顧客を持つ。いわゆる観客席に座る『お客様』と、舞台美術家、音響・照明・場合によっては制作スタッフ、そして俳優である。いくら『お客様』が面白がってもそれら『上演者サイド』の人間が上演する価値を感じなければ何にもならない。『上演者サイドの人間』がいくら面白がっても『お客様』が楽しめない舞台では何にもならない」

我ながらこの言いかえはちょっと苦しい。というのも上の文章では劇団と俳優を別の主体として扱っているが、劇団とは大抵の場合俳優を含めて存在しているからだ。

ここではっきりしておかなくてはいけないのは、上演者サイド=劇団ではないということだ。
たとえば、ひょっとこ乱舞は劇団の公演を打つために舞台美術制作会社や照明会社など外部の「組織」に仕事を委託している。全スタッフをその内部に含んでいる劇団も日本には存在するが、われわれはそうではない。

つまり、観客席と舞台の間に一本の線が引かれていて、その線を挟んで「企業」と「顧客」が存在する、という図式では現実の舞台創作の現場を説明できない、ということだ。言いかえれば、上演者サイドと観客席の双方に「顧客」を見出すことができる、ということだ。

だとすれば「顧客の欲求」という言葉を単に『お客様』の欲求、と解釈しただけでは事業を設定することはできない。

さあややこしくなってきた。「顧客」は観客席に座るお客様だけではなく上演者サイドにも存在する。改めて、われわれの顧客とは誰だろうか?

ここで引用部分をもう一度思い出してみよう。

「われわれの事業は何か」との問いは、企業を外部すなわち顧客と市場の観点から見て、初めて答えることができる。

と、あった。「外部すなわち顧客」の一文を見逃してはならない。ドラッカーによればあくまでも顧客とは組織の外部に見出されなければいけない存在である。当然ながら、劇団の内部も外部もみんな顧客と言ってしまったのでは、問題は何も進んだことにならない。問題は少し入り組んでいる。

ここで『お客様』の視点に立って舞台創作を眺めてみよう。ある演劇公演を観に行ったとき、そこで『お客様』は作品に出会う。俳優や脚本はもちろん、照明や舞台美術、劇場の清掃状況や制作スタッフの態度も含めて『お客様』は一つの作品と出会うことになる。その作品を提供する人々の総体を指して『お客様』が見出す集団、それを今、「上演者サイド」と呼ぶことにしよう。

「上演者サイド」はほとんどの場合、複数の組織で構成されている。劇団やプロデュース団体をはじめとして、舞台美術制作会社や照明会社、劇場、などさまざまな「組織」が集まって「上演者サイド」を形成している。劇団はその中の一つである。

劇団にとっての顧客とは、一つには『お客様』であり、もう一つには、「劇団以外の上演者サイドの組織」ということが出来る。

どうも議論がこんがらがってきたのを感じる。ここで整理しなければいけないのは、劇団にとって俳優は顧客であるか? という問題だろう。本日はこのぐらいで。

思わぬ方向に話が進んで、「集団」と「組織」の話をもう少し。

  • 2010.04.29 Thursday
  • 13:08


さて、前回のエントリーでは、劇団という組織のマネジメントについて書こうと思ったのだが、それ以前に、集団の存在の仕方には目的のある/なしによって二つの形式があるのではないか? という考えに至った。

今回は、その存在形式というものは、集団にとって必ずしも固定的なものではない、ということについて書こう。目的は、見つかったり、失ったりされるものだ。


たとえば、人里離れた村落共同体があるとしよう。

このような集団は、当然ながらその村を形成することによって何かを成し遂げるために結成されたわけではない。ただ単に存在し、そこにあるという、典型的に無目的な集団である。


もしも、その土地にダム開発の話が持ち上がり、村がダムに沈んでしまう、という危機が訪れたらどうだろう?
その時、村人たちは「村を守る」という「目的」のために立ち上がり、デモを行ったり、訴訟を起こしたり、ハンストをしたり、火炎瓶を投げつけたりして、抵抗する。この時、この村は「組織」である。

そして、あまりの抵抗の激しさと、火炎瓶に含まれたニトログリセリンのハンパない量に驚いた政治家達が、ダム建設の白紙撤回を宣言する…。めでたしめでたし目的達成、ということになれば、村は再び無目的な集団に戻ってゆく。


なぜ長々とこんな話をしたかと言えば、こんなストーリーが毎公演ごと劇団にも起こっていることなのではないかと思ったからだ。
何が言いたいかと言うと、劇団が常に高いモチベーションで活動してゆくためには、公演を成功させる、ということよりも、さらに長期的な目標が必要になってくるらしい、ということだ。

しかし、その前に考えなくてはいけないことがあった。そもそも何故、目的が必要なのか? という問題だ。集団が集団であるためには目的などいらないのではなかったか?

「なんでもいいから目的はあった方がいい、だってその方が人がイキイキするから」などという議論はクソ喰らえである。

かつてのオウム真理教ほど明確な目的意識をもって行動を起こした組織は多くはないだろう。狂信者はいつでもキラキラと目を輝かせているものだ。僕はそういう人達をうんざりするほど沢山見てきた。目的ってものは、あればいいってもんじゃない。

集団を維持するために目的が必要なのか?
目的を遂行するために集団が必要なのか?

どちらも本当だ。
ただし、集団の誕生は、目的の設定に先だって起こる事件だ。個人の場合と同じく、集団も、ぽんっと何かのはずみで生まれる。僕はそう思う。
たとえ誰かが明確な意思をもって旗を上げたとしても、人が出あった瞬間こそが真の誕生の瞬間である。そして一旦生まれたものは、個人である起業家の目的設定をはみ出した形で誕生、成長していく。集団とはそういうものではないだろうか。

だから無目的な集団はある意味で生まれたままの姿を保っている、とも言える。目的を持っていない状態こそ集団のデフォルト状態ではないだろうか。

無目的な集団は、どんな目的だって設定できる、という柔軟性を備えている。その柔軟性だけが組織に目的を軌道修正する軽やかさ、つまり「自由」をもたらすのではないだろうか。そう考えると、むしろ無目的な集団の持つ柔軟性によってはじめて、劇団の長期的な活動が可能となるのではないだろうか? という視点も成り立つ。このことは、うっすらと覚えておこう。

われわれは公演という「危機」に際しては、原子力潜水艦の乗組員のように高度な機能性を備えた組織であることを求められる。しかし、それもまた劇団という集団の一つの状態(フェーズ)にすぎない。小さな目的を見つけたり、手放したりしながら組織は大きな目的に挑むことができる。

いつでも緊張感を保つことが理想ではない。時には魚の群れのように全体が無目的の海にたゆたって、どこに泳いでいくべきか、悩んだり迷ったりする自由を謳歌すればよい。泳ぐペースが合わなければ、時には群れから離れ、また、合流すればよい。

今回は感覚でばかり話しているので、最後におまけの直感を。

無目的なゆるやかな集団は、作ろうと思って作れるものではない。だって言葉からして無理があるじゃないか。「目的のない集団を作る、という目的」。ほらね。

だからきっとわれわれに出来ることは、ただただ、集団をこれ以上ない形で機能させ、優れた組織を作ることだけだ。

我々の事業は何か? 何であるべきか? の前に、そもそも何なの組織って。

  • 2010.04.28 Wednesday
  • 15:21


さて、前回のエントリーで舞台創作にまつわる根本問題を、実演家の仕事と、マネジャーの仕事に分けて考えてみるという方針を決めた。そして、まずはマネジャーの仕事について考えてみる、という順序を決めた。

というわけで早速マネジャーの仕事について書こうと思ったのだが、今回はまだその準備で終わりそうだ。

先日このブログでも書いたとおり、近頃ドラッカーという人の書いた『マネジメント』という本を読んだ。大変面白く、大いに共感、感動しながら読んだわけなのだけれど(というよりこんな文章をそもそも書いているのはその本に触発されただけとも言えるわけなんだが)、その中で何度も執拗に繰り返される問いがあった。それが、

われわれの事業は何か? 何であるべきか?

という問いだ。
ここで言う「われわれ」というのを、ここで僕は自分の主宰する劇団である「ひょっとこ乱舞」と考えてみることにする。まず最初にこの問いに答えてみようと思う…のだが、しかしこの問題に本当に答えることができるのはもっとずっとあとになるだろう。

というのも、この問いは「最初の問い」でありながら、この質問への回答が完全になった時点では、少なくともマネジャーにまつわる「根本問題」が解決してしまうぐらいの大きな問いであるからだ。

一見、この問いに答えるのはたやすいように思える。とりあえずひょっとこ乱舞は劇団なんだから「われわれの事業」てのは当然「演劇公演を行うこと」じゃないの? と。

そうではない。それでは単に「劇団」という言葉に定義を与えたにすぎない。問われているのはその先だ。つまりこの問いは、

「演劇公演を行う集団が劇団である。では、われわれの劇団の事業は何か? 何であるべきか?」

と読まねばならない。これはわれわれのオリジナリティと存在意義に関わる問いなのだ。

この問いに答える前に、下準備をいろいろとしなければいけない。よって次回以降、僕はドラッカーの方法にしたがって、我々の顧客とは誰か? という問いに答えることからその準備を始めるだろう。

今回はさらにそれに先だって、まずは「最初の問い」が成立することの意味について考えてみたいと思う(やれやれ長い話だ…)。

この「最初の問い」は組織の目的にまつわる問いであるといってよい。すなわち、

あなたがたの集団は何をするために組織されているのか?

と。
しかし待って欲しい。そもそも集団には何らかの目的がなければいけないのか? もちろんそんなことはないのである。ここで僕は複数の人間が集まって作る「集団」というものを、「目的を持つ/持たない」という視点から二つに分割しよう。これ以後、僕は目的をもった集団に対してのみ「組織」という言葉を使い、目的のない集団は単に集団と呼ぶ。

集団にとって目的とは何であるか? 僕は目的は集団にとっても個人にとってもとんでもない劇薬であるように感じる。そもそも、集団にも個人にも目的などというものはないのが当たり前だからだ。
目的を定めることによって集団にとって有益なものとそうでないものを峻別する基準が生まれ、それが集団を磨き上げもするし、排他的な潔癖性を生じさせたりもする。

目的について別の視点から考えるために、たとえば先ほどの「最初の問い」を、個人に向けてみたらどうなるか考えてみよう。

「さて広田君、君の人生における事業は何か? 何であるべきか?」

もちろんこの問いに答えを返すことはできる。しかしそれは実は人生にとっての根本的な問いでは、ない。人間は本人の選択として何かのため、と目的を定めて生きることも可能ではあるが、本質的には無目的な存在としてこの世に生を受ける。ただ単に、ルールも知らず、目的もなく、いきなりこの世に放り出されて、生きることとなる。

芥川龍之介によれば、人生はルールもわからずいきなり参加させられた徒競走のようなもので、いつの間にか我々はトラックを走らされていた、という。さすが小説家はうまいことを言う。

確かに人間は、時に何らかの目的を人生に見出したりもするが、そんなものなくたって生きていけることは明らかだ。ある時期に野球のために生きると言っていた人間が、相撲取りになり、タレントになり、参議院議員になったとしても、何ら不自然さはない。波乱万丈な人生だねえ、で済む。それが適応力だ。



けれど組織は違う。



すくなくとも何らかの成果を上げようとする組織ならば何のために、という目的を失ってしまえばその存在を維持することは困難だ。というより、特別な事情でもない限り目的を失った組織は存在し続ける必要がない。オリンピック準備委員会はオリンピックが終われば解散されるべきなのだ。

(原理的には、目的を失った「組織」が「集団」に戻って単なるサークル的な付き合いを続けることはできる。が、それは「組織」が死んでしまったことを否定するような存続形態ではない)

読売巨人軍がある日、相撲部屋になり、また突然タレント事務所になり、さらに政党として組織改編をすること…は、まあ、不可能ではない。が、その必要性は、ない。個人の目的と組織の目的が乖離していったのであれば、その個人が組織を去ればいいだけの話である。逆に言えば、組織は個人の事情を越えた目的を持つことが出来る、ということだ。

その意味で組織には個人よりも適応力がないとも言えるだろうが、目的達成という機能においては個人よりも、また無目的な集団よりも、はるかに強力な力を持つ。


誤解のないように言っておくが目的を持たない集団が、集団として劣っているということを言いたいわけでは決してない。単に性質が違うという話だ。

たとえば家族には目的がない。が、構成メンバーにとってはその無目的性ゆえに価値が下がったりはしない。むしろだからこそ意義がある。収入が少ないからといってお父さんはお父さんの資格を失ったりはしないのだ(「夫」という地位ははく奪されるかもしれないが…)。

家族や夫婦、民族や国家というものは、基本的には、構成員に対してその能力を問わない集団である。つまり目的がない。それらの集団は無目的に、ただ単に存在し、むしろ存在するために「事業」を探す。家族はピクニックに行くために結成されるのではなく、家族を維持するためにピクニックに行くのだ。


では劇団はどうだろうか?


結論から言えば、劇団は無目的な「集団」にもなれるし、目的を持った「組織」にもなれる。最初の問いに対して劇団はこう答えることもできるのだ。

「我々の事業は一応のところ演劇公演である。が、まあそれがどんなものであっても構わない。どんな作品になっていくかはその時になればわかる。どこかを目指して活動をするわけではなく、活動することそのものが目的である」

と。この答えはある意味では完璧に正しいと僕は思う。

劇団がより質の高い公演を行うために目的を定め、すべての能力をそれにむかって注ぎ込むことも可能ではあるが、劇団が「集団」にも「組織」にもなれる以上、ただ単に存在し続けることも十分可能だからだ。仲間の集まる楽しい現場、というだけでもある人々にとってはそれは十分に有意義な場所になるだろう。

もちろん、組織が仲良し集団的な居心地の良さを備えていることは悪いことではない。が、特に良いことでもない。というより、居心地がいいかどうかは「集団」にとっての問題であって「組織」にとっての問題ではない。


僕らの劇団は大学のサークルから始まった。今では当時のメンバーはほぼ完全に姿を消してしまったが、その流れの中で僕らは集団が存在するための中心的な要素として「目的」というものを規定する機会を逃してきてしまったのかもしれない。

もう言うまでもないだろうが、僕がこれから語ろうとしているのは目的を持った集団――組織、についてであって無目的な、家族的サークル的「集団」に関する話ではない。

目的なくまったりと集団を維持していくためにはそれなりのセンスが必要だ。どうやらこの世にはそういったセンスのある人間と、そうでない人間がいるようで、間違いようもなく僕にはそれがない。
なぜと言えば、僕は「目的のない集団でまったりしたい」という意識がとても弱いらしいからだ。もし、まったりしていい時間があるのなら、かわいい女の子と二人きりで過ごすか、一人きりの時間を満喫して過ごしたい。

だったらなんで劇団なんかに身を置いているんだよ、と言えば、そこにやるべき仕事があるからだ。やるべき仕事がある、ということ以上に充実感を感じることはない。ごめんなさいちょっとカッコつけました。


ドラッカーは『マネジメント』のまえがきである「なぜ組織が必要なのか」と題された文章の中で、現代がいかに短期間で組織社会となったかを述べたあとで、こう書いている。


「知識を通じて生活の資を稼ぎ、成果をあげて社会に貢献する機会が豊富に存在するのは、組織だけだ



彼にとって良いマネジメントは、単に企業の成功と経済発展のためではなく、現代社会において人間がその能力を活かして働くために、その中心的課題として求められているのだ。数行のちにはこうある。


「組織をして高度の成果を上げさせることが、自由と尊厳を守る唯一の方策である。その組織に成果をあげさせるものがマネジメントであり、マネジャーの力である。成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」



今日、日本で暮らす僕にとって全体主義の脅威は彼がこれを書いた1973年ほどには現実感をもって感じられない。が、彼の言わんとしていることは十分に伝わってくる。

何かが僕らの生活を蹂躙しようとする時、自由と尊厳のために僕らに出来ることは、ある集団に目的を与え、それを「組織」として運営すること意外にない、と彼は言っているのではないだろうか。

現在の演劇・芸能シーンにおいては、あたかも個人の才能によってその活動が自由になるように見える局面がある。が、それは一面の真実にすぎない。

忘れてならないのは演劇や映画を作るのは圧倒的に多くの場合、組織である、ということだ。だから組織をどのようにマネジメントするべきか? という問題は、劇団の主宰やそれに準ずる立場の人間にだけ関係する話ではない。すべての舞台創作に関わる人間が、己の参加する組織がどうあるべきか、という問題について、なるべく具体的にその理想的な姿をイメージできたほうがよい。舞台創作に携わる限り、あなたは必ず何らかの形で組織に巻き込まれるのだから。

僕が今、危機感を覚えているのは、日本にダメな組織が横行している、ということでは、ない。その逆に、健全な強い組織がどこにもないのではないか? ということだ。ある成果を上げようと志す時、集団が明確な目的を設定できないことは単なる堕落だろう。

劇団は良い演劇を作るための手段であって目的ではない。だから僕は既存の言葉で理解されるような「劇団」というシステムそのものを懐古趣味的に擁護するつもりは最初からない。

良い舞台創作のために、しっかりと機能する組織を作りたい。劇団は、現時点で僕が選択したその仮像にすぎない。だから劇団という組織が必要で無くなった時には、きっぱりそれと決別すればいい。ただ、その時、僕が次に構想しなければいけないのは「個人の自由な活動」ではなく、もっとましな別の組織の在り方、でなければならない。ほとんどの場合、個人で舞台創作を行うことは極めて困難だからだ。


んー。こりゃ本格的にやりだすとなると相当大変だな…。
随時、いったりもどったり、記事の往復をしながら書いていくことになると思います。

おつきあいくださるかたも、どうかほどぼどに読んでいてもらって、このエントリーが含まれるカテゴリー全体が完成するのを気長に見守っていていただきたい。です。そんな奇特な方がいらっしゃれば、の話ですが。

なんべん立ち返ったら気が済むのか知らないけど、舞台創作にまつわる根本問題について

  • 2010.04.28 Wednesday
  • 14:42


これから断続的に、舞台創作にまつわる根本問題について考えてみたい。あんまり読んでいて面白くはないだろうし、役立つ情報でもないだろうと思う。が、これは僕自身にとってはどうしても避けられない問いであり、とても役に立つ情報整理なのだ。

まず具体的問題について考え始める前に、僕が抱えている問題の範囲を概観して仕分けしてみよう。

僕は現在、〆邁函↓俳優、1藹于函↓だ作者、シ狠勅膾砲箸靴読饌譱郎遒亡悗錣辰討い襦

同じ人間がやっている仕事なので、当然、これらの問題は僕にとって相互に影響を与えあいながら行われている。だが、同じ問題に対しても立場によって答えが変わってくることがある。ということに最近、気がついた。

根本問題について考えようという時に、問題が5つに分割されたままでは、いくらなんだって話がこんがらがってしまうので、仮に作家・俳優・演出家をまとめて「実演家」、制作・主宰、をマネジャーと呼んで大別することとしよう(マネジャーという言葉をここで使うのは本来の語義である「マネジメントをする者」という意味においてである)。

さて、実演家の抱える問題とマネジャーの抱える問題にここで大きな、そして明確な境界線を引いてみることにしよう。


実演家は、個人対世界の問題を扱う。
マネジャーは、組織対社会の問題を扱う。


という区分けだ。
言いかえれば、前者は個人的な問題であり、後者は社会的な問題であると言ってもよい。

実演家の問題には基本的には正解もなければ終着点もない。また、そんなものがある必要もない。仮に実演家が言葉として当座の答えすら掴めなていなかったとしても、すばらしい実演を成立させる可能性は十分あると僕は思う。

それに対して、マネジャーの問題には必ず目指すべき理想がなければならない。目的に対しての成果と失敗というものが常に明確でなければ、ある一定以上の成果を達成することは困難だろう。

思えば僕の今までの演劇活動は、これら二つの問題に対しての態度が混ざり合い、混乱を究めてきた。僕をリーダーとする集団の内部においても、僕にどちらの意味でのリーダー像を求めればいいのかわからずに、満足なリクエストすら出来ずに混乱をしてきたのではないかと思う(そしてそれは我々の劇団だけではないはずだ)。

以下の文章によってまずこれらの問題のうち、マネジャーの問題について考えをまとめたい。なぜその順番を選ぶかと言えば、実演家の問いは永遠に終わらないからだ。

ついでに言っておくと、実演家問題をさらに分割すると、

〆邁箸聾朕預亳生譴砲弔い道纏をする。
俳優は個人対身体について仕事をする。

と言えるかもしれない。1藹于函△了纏はやっぱり個人対世界を扱うとでもいうしかない。一番守備範囲が広いことは確かだ。

演出家の仕事は集団対集団ではないか? という考えも成り立つだろう。つまり「上演者 対 観客」という図式だ。その意味では演出家は当然のように社会的な存在になりうるし、ほとんど必然的に集団を扱うこととなる。が、あくまで演出家の仕事の本質は、その演出家個人が、世界とどのように対峙したのか、それを作品において示すことにあるのではないかと僕は思う。

演出家は、時にはその上演を行ったことによって決定的に集団の信頼関係を崩壊に陥れたり、内部分裂を引き起こすようなディレクションをしても構わないはずだ。彼の責任はその作品に対して、世界と対峙しうる強度を付与できた否か、で評価されるべきであって、集団の長として、あるいは良識ある大人として、評価されるべきではない。

集団を健全に維持・発展させることに責任を持つのは演出家ではなく、マネジャーである。

さらについでに、先のマネジャー問題を細かく分割してみると、


だ作者は、組織対その外部の社会、にまつわる仕事である。
シ狠勅膾砲蓮∩反イ瞭睇瑤亮匆顱△砲泙弔錣觧纏である。


と仕分けすることが出来るのではないだろうか。

まあ、もちろんこれらの仕分けは便宜上のものであって確定的なものではない。が、このような仕分けは実際上大変役に立つのではないかと僕は思っている。

舞台創作の現場においては、しばしばこれらの役割のうちの複数の仕事を同じ人間が行うため、異なる仕事は異なる規範によって動かなければならない、という当たり前のことが忘れられてしまっている現実があるように思う。

これは何も偉そうに人さまの心配をしていっているわけではない。僕がそのように困ってきた、という話である。

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