ハリボテの理念 8

  • 2008.03.04 Tuesday
  • 00:02
1.6 その時は今で、ここが目的地だ

次の仕事を取るために今の仕事があるわけではない。
もっと大きな劇場でやるために今の劇場があるわけではない。
目の前に観客がいて舞台上には表現者がいる。
この現場が最終目的地でなくて何だろう?
成長する為に作品を創るのも事実だが、
その過程そのものが自分達の残せるものの全てだ。

1.6.1 WEの意識

一般的に舞台は個人で作るものではなく、集団で創作するものだ。それに異議を唱える人はあまりいないだろうが、その実「集団で創る」ということを感覚レベルで意識している人は非常に少ないのでないだろうか? いくら優秀な個人が集まったからといって、集団として優れた成果を挙げられるとは限らないのだ。

指揮者なしのオーケストラに良い演奏が出来ない、ということは了解されやすい事実だろう。どんな集団においてもタクトを振る人間の責任は最も重い。しかしその逆に、指揮者が一流であったとしても演奏家たちがバラバラではこれまた良い演奏など生まれるはずがない。一流のオーケストラの一流たるゆえんは「タクトを持っていない個々の演奏家ですら十分に全体を意識できている」という点にあるのではないだろうか? 良い集団創作のためには、個々のメンバーが全体に対して「私が動かすことのできる集団」という意識を持つ必要がある。つまり、

「私」+「私」+「私」…  

という形で集団をイメージすることと、

「われわれ」        

という意識を持つことは、微妙だがはっきり異なるということを知る必要がある。そういった感覚、まあこんな言葉があるのかどうかわからないが「WEの意識」を持って創作を行うとき、集団の能力は最大限に活かされるはずだ。

言葉の成り立ちを考えてみても日本の社会の中にはどうもこの「WE」に相当するような概念が見当たらない。憶測にすぎないが「われわれ」とか「私たち」、「僕たち」なんて言葉は明治以降に西洋から輸入する形でとってつけた概念なのではないだろうか? 日本には集団がなく世間があるとはよく言われることだが、演劇界という世間を脱して、劇団という集団意識を持つことが、個人として真に成長するためにまずは必要になってくるのではないか。僕にはそんな予感がする。

どのような個人であれ観客が受け取るものすべてをコントロールすることは不可能だ。だが、それでも集団を制御するのはそれを構成する個人に他ならない。
中村勘三郎は自分の公演に先立って必ず客席に自ら腰を下ろし、どのような椅子からどのようなアングルで観客が芝居を観ることになるのか、その確認を怠らないという。作品が観客にどのように届くのか、ということにすべての参加者は無関心であってはならないし、共演者の演技や、すべてのスタッフワークに対しても無関心であってよいはずがない。

すべての参加者がそれらに対して発言権を有していると考えるべきだ。無論、プロの照明家に一俳優が照明のことで口を挟むのはおこがましいことだ。だが、礼儀正しく分をわきまえていることを犠牲にしても、公演の質が少しでもあがる可能性に賭けてあえてそんな発言をしてみることも重要だ。
世間という枠組みで考えれば、俳優なんだから照明家の仕事に口を出すもんじゃない、というのが「常識」になってしまうのかもしれない。僕にはこんな光景が目に浮かぶ。

俳優Aの知り合い俳優Bが舞台の本番を見に来る。そして

「あのシーンの照明なんか変だったね」
「だろ? 俺もおかしいと思ってたんだけど… なに考えてんだろうね」
「なあ」

なんていう場面…。あなたがたが創っているんだから妙だと思ったら言えばいいんじゃないの? と観客の視点からはすぐに気がつく。「いやいや、内部では意外とくっきりわかれているものなんですよ」という演劇界の「世間」を観客に理解してもらうべきか、自分の納得のいく作品を届けられるよう最大限の影響力を「集団」として行使すべきか、「WE」の意識で考えれば、それは明らかだろう。

古田新太がどこかのインタビューに答えて「俺の出ている芝居はみんな面白いよ」ということを言っていた。実際にどうだったのかなんて知らないが、少なくとも彼の意識は「どんなにつまんない芝居に出ていても俺はいい仕事するよ」ではなく、「俺の出ている芝居はみんな面白いよ」というところにあったわけで、僕はそのことにとても感心したことを覚えている。創作者はかくあるべきだ。俳優やスタッフがその才能を輝かせるとすれば、それは作品の中でだけ輝くのだから。

「連帯責任」とか「滅私奉公」という言葉に込められたプラスの部分を僕らは把握しなければならない。「つまんねえ芝居になんか出るのはごめんだから、足引っ張んないでくれ」という意識だって構わない。妥協できるギリギリのラインまで「本当にそれでいいのかよ」というツッコミを、隣の誰かに対して入れ続けて欲しい。お互いに無関心であることよりも、きっとその姿勢は作品の質を向上させる。

1.6.2 良い作品を作ることが第一。維持することはその次。

集団を維持することは目的ではない。
良い作品を作るための手段として集団は機能すべきだし、その役目を果たせなくなったのであれば集団はいつでも変形あるいは廃棄されるべきだ。ひょっとこ乱舞もその例外ではない。
いつでも集団は生き物のように動くから、生じてしまった集団にはその固体を維持しようとする力が生じるが、それは必ずしも良い創作とは関係がない。

ハリボテの理念 7

  • 2008.03.04 Tuesday
  • 00:00
1.5  良い制作環境とは何か?

制作環境についてはまた改めて。
書くほどのことがまとまりませんので。

ハリボテの理念 6

  • 2008.03.03 Monday
  • 23:57
1.4  良い稽古場とは何か?

本題に戻ろう。良い稽古場と、良い制作環境についてだった。
僕は「良い稽古場」の条件とは大きく次の二つだと思う。

1.実験に取り組むだけの時間的余裕を持つ。
2.作品として仕上げるための技術の蓄積を持つ。

これについて、以下、述べていこう。

1.4.1 時間的余裕があること。

僕は稽古場というものは単に工場であってはならず、研究所・実験場の役割をも果たさねばならないと思っている。特に「小劇場」の場合は尚更だ。
例えばオーディオ・メーカーなら短期的に売れる商品として良いカセットテープなり、良いビデオテープを開発・販売しなければならないが「改良」のことばかり考えていてはipodのような革新的な技術―――「発明」は産まれない。新しい価値を創出するためには一見非効率にも思える基礎研究がどうしても必要なのだ。

僕は映画や舞台という「演技」を題材とする芸術全般において、その役割を果たすのは小劇場ではないかと思う。というわけで、僕は「良い稽古場」を形成する条件としてまず「時間的余裕があること」を挙げておきたい。時間さえかければなんとかなるものではないが、時間さえかけずにどんな大したことができるというのだろう? 

今、日本の小劇場は平均すれば数週間であっという間に「新作」を作らなければいけないような状況に追い込まれているのではないだろうか? 以前、海外のカンパニーで一つの作品を作るのに数ヶ月から場合によっては数年かけることも珍しくないという話を聞いたことがあるが、その話と比較するまでもなくスケジュールに追われることはあんまり贅沢な話ではない。そろそろ僕たちは「大量の作品を創った」という贅沢ではなく「すばらしい作品を創った」という贅沢を味わうべきではないだろうか。

さてさて。

なるほど試行錯誤のためにじっくり時間をかけろということはわかった。が、その作業は作家や演出家が個人で補えばよいのではないか? そう考える人もいるだろう。確かにそれは一面の真実である。
演出家が俳優やスタッフのなすべき仕事をあらかじめ決めておけば、非常に効率の良い稽古が実現するだろう。俳優やスタッフは迷ったり立ち止まったりすること無く演出家の指示にひたすら従って、次々にミッションをこなしていけばいい。そういった方法で良い作品が産まれる事も往々にしてあるだろうが、しかし、所詮、稽古に時間を費やせぬ作品は誰かの描いた絵を集団で再現した程度の創作にすぎない、と僕は思う。本来、稽古場の持っている創造力とはそんなちんけな(とあえて言おう)ものではないのだ。

舞台作品は一人の人間の頭の中で誕生するものではない。台本という作品の「種」みたいなものは作家個人の中で産声をあげるが、それが稽古場という複数の人間による「場」で転がされることによって、初めて作品は進化を遂げるのだ。余談だが、「本番」はその意味で非常に大きな意義を持っている。「稽古場」というひとつの「場」で転がっていた作品が観客とともにある「劇場」という新しい「場」を見つければ、新たな飛躍が生まれるのは当然のことだ。
作家や、演出家、あるいは役者の持ち込んだ小さな創造の「種」が誰にも予想できなかった形に発展を遂げていく、そんな場所を僕は「良い稽古場」だと思う。どの一人の頭の中を探しても見つからなかった「何か」がどこからともなく誕生してしまう! そのスリリングな瞬間こそ舞台創作の持っている根本的な豊かさだし、僕はそういう稽古場をこそ手に入れたいと思う。

1.4.2 技術の蓄積があること

いくら時間をかけると言ったって、創作時間には必ず限りがある。有限の時間の中で最も高い到達点に至るためには毎回ゼロからのスタートをする必要は無い。同一メンバーで複数回創作を行うことで生じる技術の蓄積は、制約の中で作品の質を押し上げる「武器」になるだろう。
スタッフ、俳優、演出家がお互いのことを熟知しているだけでも大きなメリットだし、身体運用に関するコンセンサスという側面において、それはより大きな威力を発揮する。SPACや、ク・ナウカ、山の手事情社という身体表現に優れた成果を残したカンパニーがどのような形態で運営されてきたかを考えればそれは明らかだ。

俳優の発揮すべき能力が単に「個性」であるのならば技術の蓄積など必要ない。その人物のもともと持っている味わいを上手く輝かせることができれば、それだけで十分観客を魅了する作品ができるだろう。
そういった手法は映画の現場においてより顕著な成果を上げているように思う。ドキュメンタリーという方法はプロの俳優を使わずにドラマを成立させてしまうし、素人に即席の台本を与えてその様子をとっていくという撮影方法が、プロには決して出せないような活き活きとした現実感を醸し出すこともある(山本政志監督の『JUNK FOOD』は必見だ)。

憶測にすぎない話だが、現代日本の映画・舞台の創作現場においても「個性」というものは非常に重視されているようだ。次々と使い捨てのように若手俳優の発掘に忙しいのはその一つの現れのようにも思える。若手俳優には一種のドキュメンタリー性が存在するからどこの現場でも若いということが重宝されるのだろう。

しかし一方で俳優には技術が必要なことも間違いない。素人の芝居は回を重ねるごとにつまらなくなっていくものだが、玄人の芝居はちょうど逆の曲線を描いて段々と精度を上げていく。「撮影」という一回性の出来事と違い、確実に複数回の頂点が必要とされる舞台芸術にとって、玄人の技術が必須のものであることは言うまでもない。

何事も技術を身につけるためには訓練が必要だ。ゆえにカンパニーは訓練の方法を洗練させることから始めて技術の蓄積を産み出していく必要があるだろう。僕たちは先人の知恵を借りつつ、もう少しまともな勉強と研究を行い、決して素人には真似出来ないようなすさまじい精度の作品を作り上げてしまえばいい。おそらく、継続的な稽古場を持つ、ということはそれほど大きな可能性を手に入れるということを意味しているのだ。

以上が良い稽古場について僕が考えていることだ。が、良い稽古場を所有し、良いクリエイターが良い作品を作ったとしても、それで舞台創作が終わるわけではない。

3.それを観客に届ける。

という工程が必要になってくる。
もちろんこの工程は創作と密接な係わり合いを持ちつつ、その作品内容に深い影響を及ぼすものだ。

ハリボテの理念 5

  • 2008.03.01 Saturday
  • 07:01
1.3.3 芝居はサービスか?

ビジネスの現場において、「全く売れない素晴らしい商品」などというものは存在しない。そこでは売れたか否かがそのまま商品の良し悪しを峻別する。舞台作品もまた「サービス≒商品」であるならば、観客の入らない芝居は面白くない芝居だ、ということになる。
それは一面の真実には違いない。
行列のできるラーメン屋は確かにそれだけの何かを持っていることが多いし、空席だらけのラーメン屋はまずいことが多い。芝居にも同様のことが言えるだろう。

だが、創作者が作品の良し悪しについて考える際に「売れたか否か」という基準だけで結論を下すのは性急にすぎる。ひょっとしたら行列のできるラーメン屋は惰性で売れているだけなのかもしれないし、ガラガラのラーメン屋が実はものすごくおいしくて、今に店先には大行列ができるのかもしれない。

たとえ観客にそっぽをむかれようがちっとも動員が伸びなかろうが面白いものは面白いし、つまらないものつまらない。そう言い切れるだけの批評力と度胸を身につけようではないか。かつてひょっとこ乱舞で舞台化した太宰治の『ロマネスク』末尾にはこうある。

私たちは芸術家だ。王侯といえども恐れない。金銭もまたわれらに於いて木葉の如く軽い。

売れなかったときの負け惜しみとしてではなく、活動の原理原則としてこの言葉を僕は覚えておこう。「理念なき売れたい病」から逃れるためには、価値基準を己の中に築き上げることがどうしても必要だ。

1.3.4 「お客様」と「観客」

「観客」という言葉の使用をそもそも否定する人がいる。「お客様」のことをそんな風に扱ってしまえるガサツな神経だから芝居のサービスはいつまでもアマチュアレベルから脱却できないのだ、と。

その批判には真摯に耳を傾ける必要があると思うし、実際に公演制作はサービス業としての側面を強く持っているのだから、高いクオリティのサービス主体であろうとする自覚は大変重要なものだ。だが、多くの飲食店が必ずしなければならないような「接客サービス」は舞台制作にとっては決して「不可欠」なものではない。

寺山修二率いる『天井桟敷』が観客を比喩でなく劇場に閉じ込めてしまったように、舞台制作は時として接客サービスを逸脱した作品の一部としてその暴力性を発揮する。観客席はこうでなければならない、とか、制作スタッフの服装はこうでなければならない、といった演出と不可分の領域に繋がる接客サービスについては、あくまでも選択的にその方法を採用しているに過ぎないという認識が重要だ。演劇は、その可能性としていつでも観客をぶん殴るほどの巨大な自由を有している。

そんな無茶苦茶は法律が許さないぞ、と思う人と僕の考え方は少し違う。演劇は必ずしも法律の枠内に収まるとは限らない。むしろすぐれた舞台芸術は法律という皮膜を突き破ってその先の現実をむき出しにする。

少なくとも、僕たちが手にしている自由は「接客サービス」よりは巨大なものだということを知っておいたほうが良いだろう。だから僕はこの文章中で「観客」という言葉を使う。そこには「お客様」をないがしろにすることとは別の意図がある。

ハリボテの理念 4

  • 2008.03.01 Saturday
  • 06:59
1.3  良い作品を創るために、その準備。

「良い作品」を創るためには何が必要だろうか? 大きく言えば次の二つだ。

1.「良い稽古場」
2.「良い制作環境」

前者は「良い工場」であり、後者は「良い小売店」であると思ってもらえればいい。僕はその二つについて後々述べることになるのだが、その前に、そもそも何をもってある作品を「良い」と判断するのか? という話をしておこう。なんだか回りくどくて面倒くさそうだがじっくりいってみよう。僕がしようとしているのは、結構長い話なのだ。

1.3.1 作品の質をどうやって判断するか?

ある作品を「良い」と判断するとき、その基準はどこにあるのだろうか? 「どんな作品もそれぞれにすばらしい」なんていう平等意識をここに持ち込む必要はない。すばらしい芸術と、そうでない芸術は鋭く異なる。それを判断する能力が「批評力」というものだ。

自分自身がいかに批評力を獲得していくかというのは教養の問題だ。もちろん生まれ持っての感性もあるだろうが、「センス」なんてもんに過剰な自信を抱いたり引け目を抱いていても話は進まない。心がけ次第でどうにでもなる批評力ってものがあって、なんのことはない、それは「知識量」で補うことができる。

「日本一のラーメンを作りたい!」と息巻いている人間が、でもラーメンなんてほとんど食べたことないんだけどね、と言ったら誰だってちょっとおかしいと思うだろう。まずはいろんなラーメンを食べることだ。
僕が劇団のメンバーに対して「本を読め」「芝居を見ろ」ということをしつこく言うのは、演技や言葉に関して知識の量が足りない人間には、そもそも作品の良いか悪いかを判断することができないと信じているからだ。強く、自戒を込めて。

特に文章に触れていない役者にはそれを強く勧めたい。多種多様の娯楽に溢れた現代で何も読書だけが「高級」な趣味だなんていうつもりは全くないが、芝居を作る上で文章を読む作業というのは、寿司を作る上でご飯を炊くぐらい当然にして、根本的な作業だからだ。芝居の現場に立つ人間はそのスキルを磨いておく必要がある。

1.3.2 作品の質をどうやって判断してもらうか?

さて、芸術家が批評力について考えるときにもう一つ考えなければいけないのは、まあ、平たく言えば「啓蒙」という問題だ。それは自分以外の人間の批評力についての問題だといえる。
いくら日本一と信じるラーメンを作っても「料理なんて腹がふくれりゃあ何だっていい」と言われてしまっては浮かばれない。どんなに良い舞台を創っても「みなさん長い台詞を覚えられてすごいですね」では、やり甲斐がない。良い芸術を作る下地を用意するのは、それを評価するだけの力をもった観客に他ならない。

では観客の質を上げるために芸術家に出来ることは何だろうか? おこがましいなんて言って無関心を決め込むのは簡単だが、そんなことは百も承知だ。おこがましくても出来ることがあるならばやったほうがよい。

『青年団』のように市民参加型のワークショップを数多く行うことで自分たちの表現が何を目指しているのかを直接啓蒙していく活動も有効だろう。しかし一番手っ取り早く、シンプルなやり方は「これが上質というものだ」と自らの価値を問答無用の面白さで示してやることだ。もちろん世界一面白い芝居を決めるのは世界一高い山はどこか? という問題に比べればはるかに曖昧な問題だが、それでも、いつもいつも最高のラーメンを食べている人間はいつの間にかラーメンについて厳しい基準を身につけていくものだ。

カンパニーの社会的使命はそこにあるのではないか。上質を常に示し続けることで、上質の何たるかを共有できる観客を育んでいくこと。「良い作品を創り、それを売る」ためには、作品の質に関して表現者と観客との間で価値観の共有がなければならない。

そして制作者は、そういった観客をいかにして自分たちの舞台の観客席に座らせるか、ということを考えなくてはいけない。

ハリボテの理念 3

  • 2008.02.29 Friday
  • 19:09
1.2  誰に何を売るのか?

しばしば演劇人の間で「売れる」という言葉が交わされる。あの人は売れっ子になったとか、もっと売れる為にはどうしたらよいか、とか。時にそれは目標として語られるほどに大きな言葉なのだが、ちょっと落ち着いて考えてみよう。そもそも、私たちは何を誰に売ろうというのだろう?

1.2.1 売れるとは何か?

まずは「売れる」という言葉の意味をもう少し考えてみよう。話を分かりやすくするためにここでは「個人」についてではなく「カンパニー」を主語にした場合に語られる「売れる」について整理してみる。この言葉は大体次のような意味で使われる。

■ 動員が伸びる。
■ マスコミに注目され取り上げられる。
■ 劇団員がテレビや映画に活動の幅を広げていく。
■ 芸術的な評価を受けて様々な評論家から高い評価を得る。
■ 公的・私的な機関から助成金がもらえるようになる。
■ 海外の演劇祭から招聘される。

などなど。見てみてわかるのはいろんな「売れ方」があって、その幅は相当に広いということだ。あくまでも「売れる」とは他人本位な現象なので、売れ方を左右するのは「買手」に他ならない。だから「売れる」ためにはどんな買手にどんな風に買ってもらうか、ということが重要になってくる。

だが、ちょっと待って欲しい。芸術とは本来自己本位なものではなかったか? ゴッホの絵が彼の生前にはほとんど売れなかったというのはあまりにも有名な話だが、それでも彼は創りたいものを創りたいように創ったのだ。だから作品がどのように売れるかという問題はいつでも創った後で考えればいいことで、表現者は誰に頼まれなくても勝手に自らの創りたい作品を創り出せばよいのではないだろうか。

…と、威勢よく言ってはみたものの、事はそう単純ではない。
「売れようが売れまいが俺は俺のやりたいようにやる」という態度はいかにも格好よく映るが、ここにもう一つの考え方がある。

「売れなくても良い」という考え方は往々にして「誰にもわからなくても良い」という鼻持ちならないアーティスト気取りの態度を産む。そういった態度こそ本来娯楽であった「芸能」を高尚でクソ面白くもない「お芸術」に堕落させてしまったのではないか、と。

なるほどこれには説得力がある。そもそも芸術は誰かに何かを伝えるために存在したという考えにも真実はあるし、他人が喜ぶものを創るという姿勢こそ全ての創作の根本になるべきだ、という考えはひどく真っ当にも思える。そして何よりも、舞台表現ほど保存性において劣った芸術はないのだから、目の前の「買手」は他の表現ジャンルより余計に大切なものになってくる。

創りたいから創るのか。
誰かのために創るのか。

僕はどちらの考えも否定するつもりはない。要はバランスとお好みの問題にすぎないとすら思う。僕が問題だと思うのは「売れたい」「売れなければ」という欲望が全てに優先されてしまうような「理念なき売れたい病」に創作者の原始的な創造欲求が蹂躙されてしまうことだ。

あなたも「売れる」ことを目指すのであれば、自分の「売れる」イメージがどんなものなのかその内実を知っておく必要があるだろう。何をどう「売りたい」のかが明確でなければ、いざ本当に売れ始めた時に個々の「売れる」観はグラつき、軋み、集団ともなればたちまち活動を維持することが困難になってくるからだ。実際、私たちは売れ始めたことで崩壊していった劇団、もくしくは個人を沢山知っているはずだ。

では本題だ。私たちは誰に、何を売りたいのだろうか? 

1.2.2 何を売るのか?

まずは「何を売りたいのか?」について僕の結論を出そう。

良い作品を創って、それを売りたい。

なんだか当たり前すぎて拍子抜けしてしまうが、僕が考えているのはそういうことだ。「売れそうな作品の中から最善ものを探して創る」のでもなければ、「ひとまずは売れてからものを言う」のでもなく、「良い作品を創り、それを売る」という順序でことを進めたい。

何を売るのか? への答えが「己の才能」ではなく「作品」であることが重要だ。どのような演劇人も、時を得て場所を得なければ個人の才能を発揮することなど出来ないのだから、すべての演劇人は作品のために奉仕すべきなのだ。だから「信じた作品に力を集めろ」ということ。これがこの文章を通じて僕が最も強調しておきたいことだ。

売れるか否か、という言い逃れの出来ない「競争」から逃げることは作品の質が低いことの言い訳になるだろう。僕だって「競争」から逃げられるなんて思ってやしないが、自分で良いと信じられない作品を売ったところで誰も満足などしない。

1.2.3 誰に売るのか?

ここでは理念だけ。

芝居は誰に向かって発信され、受信されるべきか?
他者に向かってだ、と僕は信じている。
他者とは誰のことか?
この方法を通じてしか分かり合えぬような、自分とは別の人間のことだ。

より多くの人に観てほしい。
それは単に自分がちやほやされたいからじゃない。
もっと遠くへ、もっと遠くへと自分の存在を知らしめようとする人間の欲望は得体の知れぬ巨大なものだ。
空き瓶の中に手紙を詰めて海へ流したり、自己紹介のメッセージを添えて遙かなたへ宇宙船を飛ばしたりするその代わりに、芝居人は舞台に立って声を出すのだ。僕らが観客席より眺めれば、誰かが2000年前に発した声の残響を今晩も聞くことが出来る。

ハリボテの理念 2

  • 2008.02.29 Friday
  • 19:04
1.1  目指すべき創作環境と、現状

人が自分の力を十分に発揮するためには良い環境が必要だ。世界新記録を出すような陸上選手はどこからともなく沸いて出てくるのではなく、偶然授けられた才能を開花させるだけの技術と文化にもまれて、つまり環境に恵まれて、はじめて世に出る。

芝居人にとって環境とはまず「人材」のことだろう。良いスタッフと、良い俳優、良い演出家が揃っている現場ならば物質的な貧しさなどいかようにも克服できる。良い人材が集う場所だけが本質的な価値を持つのだ。

徹底的に良い環境作りということを考えれば「義務教育制度にはいかなる改善点があるか」なんてことをまじめに考える必要も出てくるんだろうが、まあ、今はそんな大風呂敷を広げるのはやめておこう。
ただ、環境作りってのは自分たちだけの狭い範囲で完結する話ではないということを覚えておきたい。

サッカーの日本代表を本当に強くしたければJリーグのレベルを上げなくてはいけないし、Jリーグのレベルを上げるためには各チームを、各チームが強くあるためには二部リーグを、あるいはユースチームを、ひいては大学を、高校を、小学校のサッカークラブを、強くしなくてはいけない。

何が言いたいか? 

いつだって僕らは自分にとってはスペシャルな代表選手であるけれども、世界にとってはいずれ去っていく捨石の一つに過ぎない。
プロデュース公演というのは代表チームのようなものだ。確かに華はあるし、脚光を浴びるかもしれない。が、クラブチームが健全に機能していない環境ではいずれ代表にもロクな選手が集まらなくなるだろう(無論、その逆に代表チームがワールドカップで一つでも多く勝てば国内の無数の小学生がせっせとボールを蹴り始めるという現実もあるが)。

僕は今、良いクラブチーム、「劇団」を作りたいと思っている。プロデュース・ユニット全盛の現代において劇団はいかなる可能性を持つのか、果たすべき役割とは何か。そんなことをこの文章を通じて探っていこうと思う。

作品の創作母体が何であるかなんて問題は、俳優にとってはどうでもいいと思えるかもしれない。だけど、ならばこそ考えてみて欲しい。とにかく面白い公演に出たいのなら、そもそもどうやってそいつを作り出すのかを考えておいて損はない。

一俳優にとって目指すべき創作環境とは「自分の力を十分に発揮できる現場を複数持っている」という事になるだろう。なにせ大抵の小劇団なんてものは作演出が事故で死亡するようなことがあれば即座にふっとんでしまう脆弱なものだし、保険のためにも幅を広げるためにも、又、ホームを相対化するためにも複数の現場を持っていることは重要だ。

閉鎖的な劇団制を超えて自由な座組が可能となった現代は、その意味でとても優れた環境を備えている。
だがその一方で、多くの現場、多くの本数をこなす事が俳優のステータスを上げていくことと誤解されている場合も多い。
「大忙しでなければ優秀でない」という強迫観念に俳優が襲われれば、一本の公演にかける時間と情熱は必然的に失われていってしまうだろう。

では、どうすればよいのか? 

自閉するのでもなく、ふらふら巡回するのでもない新しい道があるはずだ。おそらくそれは環境を自らの手で創り上げていくという選択肢になっていくだろう。それが本当に必要な道だ。

ハリボテの理念

  • 2008.02.27 Wednesday
  • 02:50
1. ハリボテの理念、前置き

当たり前の話をしよう。

芝居は理念のために存在しているのではなく快楽のために存在している。そう断言してしまうと急いであれこれと補足を入れたくなるが、ひとまずはそう言ってしまってもいいだろう。なんらかの快楽があったればこそ人間は飽きもせず芝居なんていう儲からない表現行為を続けてきたわけだし、僕もまたそれを続けてきた。

だから「なぜ芝居をするのか?」という問いに対しての答えは常に「楽しいから」の一言で十分に本質的なのだけれど、僕はあえてその問いに理屈で答えてみようと思う。今、楽しいだけでは解決できぬ問題が僕の前には多々あって、夢から醒めたように芝居をやめる人々に対して、かける言葉が見つからないのだ。

これから僕は芝居をする上での目標や理念について書いてみようと思う。仮設の目標地点という意味を込めて僕はそれらを「ハリボテの理念」と呼ぶことになるだろう。これらの理念は役に立つ場面において、役に立つ時間の中で機能すればよい。理念そのものに価値はなく、ただ本質的なことは芝居にまつわる快楽のことだけである。

僕らは「なんか楽しい」から芝居をしているのであって「なんか楽しくなくなった」ならば、その時はすっぱりこんなことはやめてしまえばいい。自分が「なんか楽しい」ことを続けていくために、あるいは大風呂敷を広げて、芝居という芸術が今後も発展していくために、僕は以下の文章を書いていく。

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