知った風な口を

  • 2006.05.17 Wednesday
  • 05:32
映画とは何か。
映画とは光だ。
『ユリイカ』のラストシーンは、
物語や、
演技や、
言葉による救済を
光が束ねることができる
ことを示した。

ひるがえって演劇とは何か。
演劇とはすでに定義された何かをそれ以前の何かに遡行させる行為だ。
演劇は暴くこと。演劇は剥ぎ取ること。演劇はありのままであること。

私がやろうとしているのは演劇のほんのちいさな、わずかな部分だ。

私の演劇。

それを私は「芝居」と呼ぶことにする。
芝居とは何か。
芝居とは言葉である。
それは音声言語と記述言語を束ねることができる。
他者への言葉と自己への言葉を束ねることが出来る。
「身体」と「意味」を、音と場所で繋ぐ事が出来る。

脳からの私観

  • 2006.05.08 Monday
  • 17:50
自分の「芝居」は徹底的に喋ることにこだわることになるんじゃないか、となんとなく思っております。「喋る身体」を見せるということ。今のところ黙る方向に進むつもりは全然なくて、むしろ「どう喋るか」っていうことを突き詰めていきたい。

論理的な言語ってのは、まあいわば脳内でループできる言葉ですから、脳の新皮質的な部分の話なわけでして、運動中枢とか、情動みたいなものとちょっと離れた部位にあるわけでしょきっと。だから構造的には「感情を込めて喋る」なんていうのはちょっとはなから無理がある話で、脳の異なる機能を統合させるアクロバットなわけですよ。

多分、音楽とか、ダンスのほうがそういう部分と直結しやすいんじゃないか? 脳の中でのポジションが近いんでしょう。


言葉は感情の邪魔をする。


私はそう思っているんです。嘘をつくというのは情動を論理が裏切ることですが、それは言葉のレベルではわりと簡単に出来る。「目が笑っていない」とか「気持がこもっていない」なんていう言い回しが一般化されていることからもわかるように、表情や声色のほうが「どの言葉を選択するか」ということよりは嘘をつきにくいわけです。「口先だけならなんとでもいえる」わけです。

だからこそ「喋る」ってことが一体なんなのか。自分にはひどくそれが人間的なことに思えるんです。情動だってもちろん人間的ですけど、動物的でもあるわけで、その動物的な部分と、机上の空論を考え出しちゃうような自慰的な脳、人間ならではの壊れた脳が、どんな形で手を結ぶのか? それに興味があるんです。

一方で、芝居というのは「人間」そのものを見世物にする行為であり、それは「人間」のモノ化、「非人間化」を導く行為であるという側面もある。それを否定するつもりは全然なくて、むしろ人間はどれだけ人間のことを「モノ」として認識してしまえるのか、ということも探っていきたい。人間を「モノ」としてしか認識することができない。それもまた人間の「脳」の限界だと思うからです。

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