★モリー・スウィーニー再び

  • 2011.06.19 Sunday
  • 18:43
私はこの舞台『モリー・スウィーニー』を二回観ている。いわゆるリピーターというヤツなんだが、ただ、あまりに面白くて二度観にいってしまったというわけでもない。

一回目になんだかんだで徹夜のような状態で劇場に行ってしまったために、前から四列目、センターという最高の席だったにもかかわらずかなり意識が朦朧としてしまい、というか、ま、平たくいやどっぷり眠りこけてしまってあんまりよく覚えていなかった、というわけで二回目を観に行ったのだ。

とはいえ、普段なら寝てしまったらそれはそれでおしまいにする話ではあるんだが、なんだか妙に内容が気になったことと、一回目に観に行った際、終演後に演出の谷くんに会ったら彼がものすごく真剣な顔をして、

「で、いかがでした?」

とかそんな事を聞いてきてくれて、そのあまりの真剣な顔つきに返す言葉もなく、「まあ、役者さんが上手だったよね」などと言っても言わなくてもどっちゃでもいいような意見でお茶を濁して帰ってきてしまった自分が情けなく、なんとかもうちっとはマシなことを言わなきゃなるめえ、という気分になったわけなのだ。

とまあ、長ったらしい前置きはともかく『モリー・スウィーニー』について少し書こう。あ、千秋楽も終わったということで思い切りネタばれしてまっせ。再演の日まで内容を知らずにいたい方はここで引き返してくださいまっせ。文中敬称略ということでご容赦ください。


さて。私はこの戯曲の中に描かれている「モリー」のこと、そして彼女とその周りの人物に起きた事件のことについては何もいうつもりはない。感情移入して観ていれば面白い部分は沢山ある戯曲だったし、「視覚」と「理解」にまつわる考察は知的好奇心を惹起するに十分な魅力を備えているものだった。しかし、それらについてここでは述べず、あくまで演出についてだけを、それもなるべく俳優のことに限定して、述べたい。というのも、確かに照明の使い方、音響の使い方など実に繊細で工夫が凝らされており、演出家として観ていて大変勉強になったのだが、けれど演出にとって最も本質的なことは俳優が何をなしたかに集約されるはずだからだ。

さて、私が興味を持ったのは、

^貎佑稜侏イ一つの役柄を演じる事はいかにして可能か?
登場人物にとって観客とは何か?

という点だ。結論から言えば、上記二点に関して『モリー・スウィーニー』の上演ははっきりした答えを出せなかったように思う。特に登場人物の独白スタイルというこの戯曲の特徴から△量簑蠅鰐技襪任ない。このことに関して満足な答えが得られなかったことが、少なくとも私にとっては物足りなさを感じる原因となった。上記二点の問題を軸に、この作品について詳しく述べていこう。

まず、冒頭。南果歩演じる盲人のモリーが登場する。彼女は盲人用の杖を使って周囲の障害物を避け、ゆっくりと舞台中央の椅子に腰をおろす。そして手探りで水差しを探し当て、コップに水を入れ、やがてゆっくりと話し始める……。

彼女がまず語り始めるのは彼女の幼少期の話だ。目が見えない彼女に父がいろいろな植物の名前を、触覚や嗅覚を使って覚えさせてくれた思い出、そのおかげで小さなころから沢山の植物の名前を知っていたこと、などが彼女によって語られる。

私はここまでの展開に早くも大きな違和感を覚えた。私ははじめ彼女が盲人用の杖を使って舞台に登場した時、自分は彼女を覗く立場に立ったのだと思った。当然ながら、盲人である彼女からはこちら側が見えていないのだろうから、私は彼女の生活を一方的に覗く側に立つ、そう思ったのだ。が、予想に反して彼女は観客の方向をしっかりとは見定めて声を出し、自分の少女時代の思い出をゆっくりと語り始めたのだ。

どうして彼女は誰に案内されたわけでもないのに迷わずまっすぐに観客の方を向いてしゃべり出すことができたのだろうか? また、何かの講演会のようなものだと彼女が考えているとするならば、どうして彼女は挨拶をするとか会釈をするとかいった、そういった場にふさわしい身ぶりを何もしなかったのだろうか? 

私が最初に理解したのはこういう奇妙な状況だ。「彼女の目は見えていない。が、しかし彼女は客席がどの方向にあるか十分に理解しており、私たちに向かって何かを話す意志を持っている」。

彼女を覗こうとしていた私の態度はこうして開始数秒にして変更を迫られた。そのこと自体は別に問題ではない。私が当惑したのは彼女にとって私たちが一体なんであるのかがよくわからなかったことだ。なぜ彼女はわざわざ私たちの前に腰をおろし、自分語りを始めなければならなかったのだろうか? その動機がわからなかった。

いや、わからなかったというのはちょっとカマトトぶった言い方かもしれない。私にはとてもよくその理由がわかっていた。それは、これが、お芝居だから、だ。

俳優・南果歩にとっては、ここは劇場であって観客に台詞を発することには確かな動機があるだろう。観客は俳優が台詞をしゃべることを期待している。が、モリー・スウィーニーにとって、不特定多数の人間に自分の過去を語り始める動機とはなんだろうか? これはお芝居だから、というのは俳優にとっての動機にはなっても、役柄にとっての動機にはならない。そして、その動機が明確でなければ彼女の発言はパワーを持たないだろう。

これは一見、戯曲の抱えている問題のようにも思える。まさしくそうだ。普通、リアリズムの演劇においては登場人物が観客に向かって直接語りかけるということは注意深く回避される。登場人物はあたかも観客なんぞ存在しないかのように振舞い、観客はそれを覗き観る。この戯曲はそういったリアリズムの手法を無視するところからスタートしている。だからこそこの戯曲の上演においては、登場人物たちにとって観客とは誰か? という問題がとても重要なのではないかと思う。劇場という場において、あの独白たちに必然性を持たせる工夫がもっと明確な形で必要だったのではないだろうか。

それはモリー以外の二人の登場人物、ライス医師と夫のフランクにも言える。彼らにとっても私たちが何なのかが一向にわからなかった。彼らがしゃべり出す必然性は、「それは、これが、お芝居だから」ということ以外にどこにもないように思えた。なぜあの男たち二人は私たちに語りかけるのだろう? 何のために、誰に向かって彼らはしゃべっているのか?

この戯曲は大変挑戦的な構造をしている。3人の登場人物はそれぞれ個別に観客に向かって話しかけ、特に3人のうち誰の語りが観客にとって一番近いとか遠いとかそういうことを感じさせない構造だ。たとえばこの戯曲が「ライス医師によって語られたレポート」という大枠の構造をもっていたならば話はもっとずっと簡単だったろう。その時、モリーの発言はすべてライス医師に向けられたものと見なすこともできたろうから、彼女が長々と自分語りをする役柄としての動機が明確になるはずだ。

しかし、実際には彼らは等しく我々に話しかけるのだ。そしてその語りが彼らの人生にとっていつの時点で始まったものなのか、さらにこの語りが成立している場所、この劇場のここ、この場所がいったいどこなのか? そういった重要な事柄にはあえて何も触れられていない。まるで、そこに関しては演出がいかようにも補完せよ、とでも言っているかのように……。


谷の演出において私が違和感を持った最大の点は、俳優と役柄との距離の問題だ。小林顕作演じる夫・フランクは他の二人とは演技上のルールがやや違ってかなり観客に対して直接的な言及を許されていた。多分に小林のアドリブも入っているのだろうが、当日の観客の様子に即して発言を許されていたことは間違いがないだろう。

発言の中で特に印象的だったのは、二幕の開始直後に客席後方から花道を通って登場する小林が発した「ここが三軒茶屋かあ……」という台詞だ。これは当然、フランクの台詞ではありえない。原作には絶対存在しない言葉だろう。その他にも遅れてきた観客に対しての「あれ、今来たんですか? もう一回セリフ言い直します?」といったような台詞も原作にはないはずだ。

さて、ではこれらの台詞にはない台詞をしゃべっているのは誰なのだろうか? 普通に考えればそれはフランクではなく、俳優本人、つまり小林顕作ではないのか、という考えが浮かぶ。三軒茶屋に居るのはフランクではなく小林だからだ。しかしそのことは劇中では決して暴露されない。小林は少なくとも表面上は一度もフランクであることをやめないのだ。俳優と役柄との間にあるズレはひた隠しにされる。

俳優は舞台上においては常に、俳優本人であると同時に役柄でもあるという二重性を生きている。小林はフランクであると同時に小林であるからこそ「三軒茶屋」という台詞を言いうるのだ。

なぜそのズレは隠蔽されなければならないのだろう? フランクと名乗るこの男はどう見ても日本人であり、フランクという名前は彼自身の名前でないことは明らかで、「田舎」を表現するときに「奥多摩」をたとえに使う彼が日本人でなくてなんであろうか? しかし、役柄と俳優との溝についてついに決定的な形で言及されることはない。そこにはぶっちゃけてはいけない何か、が存在しているらしい。

谷は一方では、俳優と役柄とに距離がなければ発せられないような台詞を登場させつつ、また一方では俳優と役柄の間にある溝を限りなくゼロに近づける努力している。ここに大きな矛盾があって、整合性がとれていなかったのではないかと思う。

同じことを違う視点から言おう。例えば、モリーを演じる南果歩本人は「盲人ではない」。が、盲人であるかのように演技をする。そこでは、「実は見えてるんだけどね」というような「おふざけ」は絶対許されない。が、私は思うのだが、それが許されないのならば「三軒茶屋」も許されないはずではないのか? 何も私は「三軒茶屋」という台詞が不適切だったなどといいたいわけでは断じてない。むしろ逆に「三軒茶屋」発言が許されるのなら「実は見えてるんだけどね」的な発言も許されなければならない、という態度決定の問題を問うているのだ。このダブルスタンダードがまかりとおるにはそれなりの理由がある。ここには無言の隠蔽が、制度が、「それをいっちゃあおしめえよ」がある。それは何だ?

私たちの前には長らく一つの分かりやすい「嘘」が前提とされてきた。それは「俳優と役柄は本質的には別の存在だけど、今はその間にあるズレはゼロとして計算しますからね」というものだ(2000年代の演劇シーンにあって、その「嘘」に大胆かつシンプルな方法でメスを入れたのが「チェルフィッチュ」の例の自己言及スタイルだった)。

私たちは芝居という制度をよく理解している。私たちはもはや、舞台上で女の子が乱暴されているからといって無闇に舞台上に登って暴漢を殴りつけ、「怪我はありませんか? 安心してください」とやるほど純朴な観客ではありえない。私は、お芝居の嘘というものを重々承知しているからこそ、役柄と俳優の間にズレがあることを理解しつつ、「この芝居ではズレをあたかもゼロとして扱うのねオッケーそんじゃそのつもりで観るよ」というある種の親切心を発揮することが可能なのだ。

ところで、ここで前提とされている制度はそんなにも頼りになるものだろうか? 少なくとも演出家が疑いの目を向けてもよいぐらいに、それは脆弱な制度ではないだろうか? それが私の疑問だ。

3人の俳優は三者三様に達者だった。あれだけの長台詞の応酬はなるほど素人に毛が生えた程度の俳優たちでは形にすらならないだろう。その意味で俳優としての力量は賞賛するしか無い。が、そのことと俳優と役柄とのズレをいかに処理するかという問題とは別だ。

ズレ・溝が生じたことが悪いなどと言いたいわけではない。その二者の間の溝をあたかもなかったかのように扱う身ぶりの中に制度化された芝居のシステムへの無批判な依存があるのではないか、ということを私はいいたいのだ。小林の数々のメタフィクション的な発言によって俳優と役柄との距離感は何度かチラチラと顔をのぞかせているわけだから、シリアスな部分でだけそのズレ・溝を「なかったことにしてください」というのは無理がある。

俳優と役柄との間の溝・ズレを限りなくゼロに近づけていくのであれば、俳優が俳優として振舞うこと、つまり演劇的な作為は忌避されなければならないはずだ。が、谷の演出において時にそれは忌避され、時にそれは強調され、そこに統一的な指針が見えなかった。盲人のモリーを演じる南果歩はあたかも盲人のように振る舞うが、小林は「三軒茶屋」や「奥多摩」を語り、どの登場人物も誰に向かって話しているのか? という役柄としての根本的な動機を明らかにできないまま、俳優として長い台詞を観客にはき続けてしまった。私にはそう見えた。

観客が登場人物たちにとって誰であるのか? それは私たちの想像力に委ねられていたのかもしれない。もちろん想像できた。だが私に想像できたのは、モリーやフランクやライスの話すべき動機ではなく、「俳優が芝居をするためには台詞が必要なんだ」という制度の上での必然性にすぎなかった。そこに私はワクワクするような何かを感じることができなかった。


と、まあこれで大体言いたいことはいった。この文章を通じて私がしたかったのは「モリー・スウィーニー」という舞台作品の批判ではない。スタッフ・俳優ともに気合は十分入っていることが感じられたし、演出も大変細かく作られていたと感じた。だからこそ敬意を評して、賞賛の言葉はあえて控え、この作品が切り開いてくれた地平のその先を見ようと私は試みた。

その先のことはまた改めて書いていこう。

★国分寺大人倶楽部、声の大きさ、演技スタイル

  • 2011.06.16 Thursday
  • 16:20
国分寺大人倶楽部を観てきた。

まだ上演中なので内容についてはここでは一切ふれず、その表現方法について少し考えたことを書いてみようと思う。

国分寺大人倶楽部に出演している俳優たちの演技に対しては以前から「声が聞こえない」などという批判があるが、これはそもそも話が噛み合っていないように思う。何も国分寺の舞台に限らず小声に対しての指摘はさまざまな場面でなされてきた。青年団の人から聞いた話だと、オリザさんの芝居ですらいまだに「もっと大きな声でしゃべったほうがいいのでは?」という指摘があるそうだ。

観客と上演者の間に「演技」というものに対しての認識の違いが存在していて、議論がすれ違ってしまっているのはやや不幸な状況であるといえる。では、認識の違いとはなんだろうか?

その「忠告」を発する観客たちはこんな主張を展開することが多いのではないだろうか。「声量を落として声が聞き取れなくなってしまうのは単に技術不足。俳優さんはボソボソしゃべってもちゃんと聞き取れるような声を獲得すべくしっかり訓練をしなきゃいけないんじゃないか」。

その主張には一理ある。確かにそういう技術を欲しがっている俳優や演出家は多いだろうし、実際にそういった訓練をしている俳優も多く存在するだろう。そして事実として「ぶつぶつしゃべっていても聞き取れる声」というものは実在する。僕の場合、青年団の志賀廣太郎さんや山内健司さんのことを思い浮かべれば、なるほどああいった声のことか、とすぐに納得がいく。

しかし、である。では今後、国分寺大人倶楽部のメンバーは「ぼそぼそしゃべっていても聞き取れる声」を獲得すべく訓練をしていくだろうか? と考えると、どうもそんな訓練はしないように思う。これははっきり言って個人的な推量であって、もしかしたら彼らは「今後」どころかすでに現在進行形でそういった声の獲得に向けてカリキュラムを組んで日夜トレーニングに励んでいるのかもしれない。……が、どうも私の個人的予想からすることそんな努力は今もしていないし、今後ともしないんじゃないかと思う。

これは彼らを非難していっているわけでは決してない。そこにこそ認識の違いが存在する、といいたいのだ。彼らは、今までに演技という行為の中で当然とされてきた常識に疑いの目を向けた。そしていわゆる演技という行為の中から不必要なものを排除しようとしているのだといえる。

では、彼らが従来の演技から排除しようとしているものとは何か? それはたとえば「演劇的大げさな身ぶり」とか「大きな怒鳴り声」みたいなものだったりするだろう。もっと極端に言えば「声を届かせよう」という意識そのもの、「演技しよう」という意識そのもの、すべての作為そのもの、それが彼らの排除しようとしているものではないだろうか。それは演出における自然主義といったらいいのか、リアリズムといったらいいのか、とにかくそういった態度だ。

脚本の内容を伝えるためには言葉がはっきり伝わることは大変重要だ。ゆえに青年団というカンパニーにおいては、「聞こえても聞こえなくてもどっちゃでもいい」というような発声はあまり好まれてこなかったのかもしれない。ゆえに青年団のベテランたちは、後ろを向いていても、小声で話していても、はっきりと何を言っているかが伝わる。そんな離れ業をやってのける。明らかにそれは身体運用の技術の問題でもある。

それに反して、あくまでも私の個人的な予想として、国分寺大人倶楽部の俳優たちは「聞こえても聞こえなくてもどっちゃでもいい」と実際にある程度は思っているはずだ。おそらく彼らにとって大切なことは、テキストどおりに正確な発音をすることではなく、それ以上に「場面の空気感」とか、そんな言葉で言い表すことができるようなその状況における雰囲気、それを臨場感をもって再現することにあるのだろう。そう考えれば、彼らが全く聞こえるはずもないような声量で演技することにもある程度納得がいくはずだ。というか、私はそう納得している。

彼らは場の空気を保つためにはセリフの枝葉末節が変更されることを気にかけないのではないだろうか。そのスタンスは僕にとって十分理解可能だ。かつてポツドールが作った一連の「言葉が聞き取れない芝居」を観て以降、私にとって、発語内容が重視されない演劇はある種のスタンダードの一つとなったからだ。

一方の立場から見ればここには間違いなく、「技術の未成熟」という問題があるのだろう。「もっと大きな劇場に行ったらどうするのか?」という疑問もあるだろう。ただ、その疑問に対しての答えはある程度すでに出ている。実際に「もっと大きな劇場」でやることになったポツドールはあっさりとマイクを使用するに至った。その過程にはBGMですべてのセリフをかき消してみたり、少しは大きな声を出させてみたり、あるいは全く台詞をなくしてしまったりとさまざまな試行錯誤があったようだが、今のところ彼らの結論としては「マイクを使う」ということを選んだようだ。それは当然と言えばあまりに当然のことだし、とても単純な方法だ。

声量の問題なんてマイクが解決してくれるんだから、俳優はもっと俳優の力によってしか解決できない問題について突き詰めて考えるべきだ……。もしかしたら彼らはそんな風に考えているのかもしれない。少なくとも、僕はこの問題をそんな風に考えたりもする。では、徹底的にリアリズムを推し進めることは演技にどんなことを要求してくるだろうか? 今度はその限界について考えてみたい。

★俳優がよく動くためには何が必要だろう? part.3

  • 2008.08.30 Saturday
  • 03:14


カラープリンターのインクが何度か無くなって、それを何度か補充しつつ、製本作業とダベリは続いた。

えー、さて。

セットを組んで日常会話をするような作品においては、舞台上でいかに「日常」の動きの素晴らしさを再現するか、ということが一つの目的になるだろう。それは素直に納得できる。

では、僕がやろうとしているような、セットが少くて動きの大きい作品には「日常」の動作が持つ魅力以外に何が必要なのだろう? 言い換えればその問いはこういう意味だ、

舞台で「日常」より大きな運動をする際、どうやって動機を確保すればいいのだろう?

こっからは実際話したことっていうより、かなり脳内対話です。



広  陥りやすい誤解としてさ、例えば「山のようなみかんが」みたいな台詞を言うときにさ、こうやって「山のような」って(両手で傾斜を示す「山」のジェスチャー)動いちゃうみたいなことがあると思うんだけど、まあ、それじゃ全然ダメなわけじゃない。そんなことせんでもわかるわ、というね。言葉の意味から動きを引っ張ってくるとどうしてもそういう、アホなわかり易さになっちゃう。

チ  説明過剰。
広  でもね、なんだかんだいって「とりあえず台詞言うときに動いてくれ」みたいな指示を出すと真っ先に出てくるのがその、山のようなみかん式のジェスチャーなんだよね。

チ  それは指示も良くないんじゃないですか。「とりあえず動かなきゃ」という動機じゃ動機にはならない。だってそれは「登場人物が必然性に基づいて動いている」んじゃなくて、「役者が演出家に言われて動いている」だけだから。

広  だからつまんねえんだよな。目的が「動きを見せること」に浮き上がっちゃうと、もう動きは腐るんだよ。

チ  それで、じゃあ、どうするか。
広  まず、なんでそうなってしまのか? を考えてみよう。うーんとね、そもそもね、当たり前なんだけど、ある程度動きが激しくなると喋りにくいじゃない? みんなBOAじゃないんだから。いやBOAはすごいよ実際。あれはね、もうね、えらい人ですよ。

チ  BOAはまあ…、で?
広  アムロもすごい。
チ  いやまあ、そうですけど…
広  だって、歌も上手い踊りも上手い、そしてかわいい…。稀有! 稀有な存在! 
チ  …
広  …えーと、そう、動きすぎるとしゃべりにくい、って話だ。あの、最近コンテンボラリーダンスとかで喋るシーンのあるものをいくつか見たんだけどさ、もちろん動きが激しすぎるとしゃべれないんだけど、逆にしゃべりが激しすぎると動けないのね、これは一つの真実だなと。

チ  普通に考えると、はい。
広  そこから何が言えるかというと、エネルギーをものすごく高めていくと、人間は同時並行的な思考から、単一の思考に移行するんじゃないかと。

チ  夢中になると一つのことしか見えなくなる…てことですか?
広  それ! 
チ  ふんふん…
広  普段はさ、まあ、俺らはこうやって話してても、言葉の内容とは無関係な動きを沢山するわけでしょ。

チ  こうやって、ね(ちょうどタバコに火をつけようとしていた)
広  そうそう。タバコ吸ったり、お茶飲んだりしながら話をしている。この時、話の内容と、動作ってのはくっついたり離れたりを繰り返してると思うんだよ。もちろん動きの中には話の内容とすごくリンクした動きってのも沢山出てくるけどね。

チ  ふんふん
広  これをさ、喋りの線と動きの線の二つのズレた波線のモデルで考えられないかな? 

チ  ??

広  波みたいにうねうねした線がこう、重ね合わせてあるんだよ。単純にいえば交差する波だ。

チ  はあ…

広  内容と動きの関係は強くなったり弱くなったりしながら会話は進んでいく。くっついたり、はなれたり、だ。
本来、動きのある芝居においても、その強くなったり弱くなったり、という運動は続けられるべきなんだけど、山のようなみかん式の動きではその強弱運動がなくなって、動きの線と内容の線は常にべったりとひっついてしまう。

それだと動きは常に言葉の内容に依存することになってしまうから、動きのもっている情報量が常に言葉の情報量以下になってしまう。だからつまんない動きになるんだ。

そういうことをやっていると何が起こるかというと、舞台においてその人間の「状況」「場所」というものがなくなってしまう。生活し、会話をしている「時間」、つまり「生活空間」というものが捨象されているからだ。

かなりの程度まで、僕の劇において状況というものは消滅しないから、その強弱運動は完全に状況が消滅するその瞬間まで継続されるべきなんだ。

きっと、動きってのは「状況」と「内容」という二つのパラメーター(因子)によってその値を変化させるんだな。

だから、動きを激しくするためには、その二つの因子からそれぞれ情報を拾ってこなくちゃいけない、それを片方から情報をもってこようとすると、言葉か動きか、どちらが腐る。そう言える、と思わない?

チ  いや、最後はちょっとわかりにくいっすね…。

広  んー、なんかちょっと大事なことを掴んだような気がする。また後日まとめるわ。

てな感じで本日は終了。
最後まで読んでくださった方ありがとう。
この文書も、もうちょっと整理する、やもしれません。
本日は鉄を熱いうちに打ってみました。
ふう…。

★俳優がよく動くためには何が必要だろう? part.2

  • 2008.08.30 Saturday
  • 01:55


途中、劇団名誉顧問の竹内さんから電話があったり、チョウが物販のための台本作業を進めたりしながら、いい感じにお昼を過ぎてもダラダラと話は続いた。

いい動きをするために何が必要か? 

という疑問に関しての一つの答えは、必然性に裏付けられた動作の連続、つまり「日常」にそのヒントがあるらしいことがわかった。もう少し「日常」の動きが何故いいのかを考えてみた。

広  いい会話劇を見ているとさ、そんな特別なことは何もしていなくても動きがいいってことは多くない?
チ  輝いてますねえ
広  あれはちゃんと動機が準備できてるってことなのかもね。じゃ、逆にいやな動きだなあ、と思うのはどんな時?
チ  うーん。いやな動き?
広  あるでしょう、なんか。
チ  あぁ、ついでに前を見る、っていうのはイヤですね。
広  ふんふん?
チ  えーと、じゃあ殺陣で人を斬る、っていうシーンがあるとしますよね? それでこう、ズバァッ、とですね(敵を斬って下を向いている。またしても実践)斬ってから、はい、ギラり(客席目線。したり顔をして、振り返って帰る)みたいな。もうそういうことをされると、「何、今の顔は!?」ってなりますね。何もしないでくれたらこっちがいろいろ想像するのに、ギラぁ、って…。だったら全然、つかさんみたいにパーン! って前向いてくれた方がわかるんですよ。だからそういうついでみたいのは…。

広  それはヤだね。動きの目的が「顔を見せたい」ていうことに浮き上がっちゃってるのか。目線に必然性がないと特に違和感を覚えるのかもね。

チ  あとね、動きは絶対、何かに動かしてもらう方が面白いんですよ。

広  「何か」ってのは人間?
チ  人でもいいですし、なんでも。なんでもいいんです、外のものなら。たとえば、遠くのほうで何かがカサって音を立てたとかでもいいし。

広  どうして外からなんかあったほうがいいの?
チ  んー、自分の世界にどんどん入り込んでいっても、もちろんそれはそれで意味もあるし、素晴らしい動きもあるんだけど、やっぱり自分の想像の範囲の動きになっちゃうし、自分の知っている動きのパターンになっちゃう。そういうことやるんだったら、もう京劇の人とかものすごい沢山動きのパターンを知っているわけだし、実際に動くだけの技術もすごいわけだし、訓練受けてない人間の太刀打ちできることじゃなくなってくるわけですよ。

広  うんうん
チ  だけどね、外から何かをもらうと自分以上の動きをする。ことがある。バガボンドの世界だってほんとそうじゃないですか。相手がいて、それに合わせて即興、即興ってやっていくことで、自分一人とはまた違った流れの中で動くことができるし、自分の限界を超えた動きがポンと出てくる。

広  一人で即興やっててもそういうのはなかなか出てこないと。
チ  さっきのワークショップの先生が言ってたんですけど、ちゃんと人を倒せる人ってのが今、全然いないんですって、

広  なになに? 
チ  あのね、こう組手をやる時にですね、本気で倒しに来る動きがあるからこそ、その力を使って返し技が出せたりいろいろするんですけど、本気で倒すってのができないと。押しますよ、押しますよ、みたいな

広  変な遠慮が入っちゃう?
チ  ですかね。とにかく、その本気で倒す動き、もうホントの本気ってのはなかなか出ないんですって。で、倒す側がまずウソで入っちゃったら当然受けもウソになっちゃうし、そんなんじゃロクな組手にならないわけですよ。だからまず、徹底的にちゃんと押せるように、と。そっから真の組手が始まるわけです。

広  日本の警察が銃の引き金引けないみたいなもんか。そういう、やらなきゃやられる、みたいな環境に慣れてないもんなあ。でもきっとそれ会話でも言えることだよね。
チ  はいはい

広  本気で伝える、とかさ。あるいは相手の考えを本気で聞いて、絶対に二人の妥協点を見出すんだ、みたいな切迫感のある場面がなかなかないんだよね。そう、最近ずっと「踏み込む声」ってことについて考えているんだけど、ああ、ソレを考えるきっかけになったのが吉祥寺シアターの一回目だね。

チ  銀髪再演
広  そうそう。あの時にまあ30人ぐらい(役者が)いてさ、俺は出てなかったからずっと三階からみんなの芝居をみてたでしょ? 観客席にまで言葉が届くかどうかっていうのは、声のでかさとは関係ないんだよ。ちっちゃくても言葉の通る役者と、でかい声でも全然話がわかんなくなっちゃう役者がいる。なんだこれは? と思って考えたのが、要は共演者に対して、ひいては観客に対して「踏み込む」っていうかさ、そういう度胸があるかどうかが問題になるんじゃないかと。

チ  両方ですよね。自分が人を変えてしまうことに関する度胸と、人によって自分が変えられてしまうことに関する度胸。
広  どっちも怖くないわけはないから、その恐れを繊細な感覚で自覚しつつ、かつ、野蛮に踏み込む。度胸だよな。

チ  で、はじめて即興の入口に入れる、と。
広  先は長いなあ
チ  いやいや、長くかかることをやりましょうよ。長くかかることが楽しいんだから。

★俳優がよく動くためには何が必要だろう? part.1

  • 2008.08.30 Saturday
  • 00:30


昨晩から台本の構成についてあれこれ考えていて、ちょうどよい具合に煮詰まりつつ、行き詰まりつつしていたら事務所にチョウがやってきた。よもやまの話に加えて俳優の動きについてあーだこーだ。要は、

俳優がよく動くためには何が必要だろう?

という問題について話あった。以下、覚書。
チョウちゃんの発言は広田の捏造アリアリですのであしからず。

広  役者が動こうと思ったら何が必要だと思う?
チ  え? んー、動機じゃないすかね。
広  うん。動機か…。
チ  どこにそれを見つけていくかってのが大事だと思うんですよ。あの、そうそう、こないだ行ったワークショップでちょっと面白い話があったんですけど、

広  ほうほう
チ  ま、普段の生活でやってる動きってのは結構誰でもすばらしい、と。どんなバレエダンサーより皆さんきれいに動いてますよ、ていう話があってですね。で、それは何がいいのかっていうと、「理に適っている」んだよと、

広  理に適っている?
チ  たとえば、まあ、何でもいいんですど、あ、これでいいや(傍らにあるペットボトルを取り)、これを取る、って言う動きがあるとするじゃないですか? そしたら、普段はこうやって取るんだけど(理に適った動き)、いざ舞台に乗るとついこんな風に(理に適っていない動き)して取っちゃう。ま、あんま上手くできないんですけど、ああ、先生すごい上手かったんですけど。いやー上手かったなあ先生。上手かったんですよホント。

広  それは、うん、わかった。
チ  はい。あ、で、だから、普段はみんな神様の動きをしている、と。そういう話なんです。

広  うーん、理に適った動きは身体全体を使っている印象で、理に適っていない動きは手だけで取りにいったような印象だよね。

チ  あとは、重心ですかね。
広  なるほど。スムーズじゃない、と。
チ  はい
広  その話はなんとなく経験からわかるような気もするね。舞台に出ると固くなっちゃうとか普段通りできないとか。それってでもさ、何で出来なくなるんだろうな? 

チ  んー…
広  その、つまり、何が僕らにそれを出来なくさせてるんだろうね? 
チ  お客さんへのこう…
広  いちびり心?
チ  なんすかそれ? 
広  いや、それはいいとして。うーん、そこは結構重要な気がするね。
チ  んー…
広  動機ってさっきいってたと思うんだけど、動機がズレちゃう、ってことが原因なのかもね。普段の生活だったらちゃんとした動機があって動くじゃない? ペットボトル取るにしたって、まあ、水を飲みたいとか、手持ち無沙汰だからそれで手わすらしたいとか、なんかをやりたいっていう衝動があってそういう動きになるわけでしょ。

チ  はいはい。
広  だけど舞台上だとそのペットボトルを取るという動作だったり仕草そのものが目的になる。

チ  ト書きに書いてあるかもしれないですもんね。『男、ゆっくりとペットボトルを手に取り』みたいな

広  あるある。多分普段通りの動きが舞台上で出来なくなる理由の一つはそれで、動機が摩り替わっちゃうてことだよね。それは「目的の浮き上がり」といってもいいのかもしれないけど。

チ  ほうほう?
広  本来は水を飲みたい、ていう衝動があって、いわば深いとこにある動機が動きの引き金になっているんだけど、舞台上ではペットボトルを取るという動きを見せることに目的が浮き上がっちゃう。

チ  ふんふん…。
広  だから俳優の仕事は、台本で浮き上がっている目的を、衝動のレベルまでもう一度埋め込む、ってことだ。俳優の考えるべきは「何故、ベットボトルを取るのか? 水を飲みたいからだ」ということの一歩先、「何故、水を飲みたいのか?」という問題なんじゃないか。その答えはもちろん言葉で言い表せるような論理的な答えじゃなくて、言葉や仕草以前に何かにさかのぼる作業になるんじゃないか。

★ 威嚇する猿は実にいい役者だと思う

  • 2007.02.22 Thursday
  • 12:29
前回のつづきから。

猿はいい役者だ、と。
まあもちろん猿にそんな意思はないのだろうけど、いろんな意味でいい役者だ。
猿回し、って楽しいんだろうか。
真面目に観たことがないので是非とも見てみたいものだ。
町田康の「パンク侍、…」の中でも猿回しのシーンがあったな…。

いや、それはさておき。

最近自分が役者に対してダメ出ししていることの要点はつまるところ、

興味を持てよ。

ということに尽きるということがわかってきたのです。
ラーメンズ片桐仁風に言うならば「キョウめよ」という感じ。
単に、興味を持てよ、ということなんだけど、あそこから一文字取って
キョウめよ! 
と言ったラーメンズは偉いと思う。


キョウめよ、がダメ出しとしてどういう意味かというと、

一つには、相手役を見ろ、受け取れ、ということであり、
二つには、相手に映る自分の影響力を見ろ、ということである。

言い換えれば、

一つには、相手の演技を見ろ、ということであり、
二つには、相手が自分の演技をどう受け取ったか見ろ、

ということである。
まあ同じ事を言っているとも言える。二つ目は、一つ目の指示に含まれている。

自分が言った言葉、態度が相手にどのように受容されるか―――
たとえば可愛らしいと思われる仕草を女性が意図を持って行なったとして、
それが、萌えー、とか受けとめられるのか、ムカー、と受け止められるのかは大問題だろうと。無関心であってよいはずがないだろう、と。

一般生活において人は放っておいてもそれに興味を持つであろうに、演技においては興味が失われることが多い。というのは、台詞という予定調和によってあらかじめ相手のリアクションが決まってしまっているからだ。

だから私は、キョウめよ! と何度もいうハメになる。
いや、キョウめよ、とは言ってないけど、そういう意味のことを。
自分という存在、もしくは自分の言動が人々にどのように受け止められるのか、それに言語レベルでも身体レベルでも極めて敏感に反応してよ、という意味でキョウめよ! は、ある。
だから人がどうであれ自分に関係ないと思っている人、自分にしか興味が無い人は役者に向かない。関係せねば。


猿における威嚇行動は、相手に興味を持つ、という点に置いて非常に優れている。
相手が自分のフェイントに引っ掛かっているのか、引っ掛かっていないのか、彼らは実に真剣に観察している。というか、相手にとって有効なことしか、威嚇にはならない。
動物園のサル達はもちろん人々に始終観察されているのだが、「いやいや人も見ているんだしよー、バナナぐらいで喧嘩はみっともないぜえ?」 みたいなことは言わない。多分、考えに入れてないと思う。

だからこそこっちはつい見てしまう。

サル達は舞台上の中のことだけに集中し「フットライトのこちら側」にだけ集中している。その点では、彼らこそ最高のスタニスラフスキーシステムの体現者である。
なんとなく私は猿のように動きたいと思い、また、動いてもらいたい、と思うのはそういうところにその理由があるのかもしれない。

★ 揃うこと、ズレること

  • 2006.11.28 Tuesday
  • 05:47
劇場見学に行く予定だったのに行きそびれました。つーか寝すぎました。
また改めて行ってきます。
本日は稽古場でひたすらダンスでした。
足の裏がもうボロボロになるってほど踊っているわけです。そこで思うこと。

例えば一つの振付を決めたときに、
当然その振りに適応する人とそうでない人が出て来ます。
それをどう処理していくのか?

全員を「同じ」振りに縛りつけようとすることはなんだかつまらないんじゃないかと理屈では思うんですが、感覚的にはズレている人がいると気分が悪い。つい揃えようとしてしまう。完璧に揃っていることが理想なんだと思ってしまう。

とはいえ最終的にそんなにバリバリに揃うもんじゃないとは思うんです。シンクロナイズドスイミングみたいなレベルで揃えようと思ったら、それこそ合宿をして一日十時間数ヶ月とかそういう単位の練習が必要になってくる。当然、脱落者も多数出しながら。それはできない。

群舞がデタラメでないためには、どうしたって揃えるということにこだわらざるを得ないんですが、全体を一つの身体、一つの身振りに落とし込んでいくことが果たして本当にやりたいことなのか? という疑問が残るのです。

群舞が群舞として面白いためには揃うことと同じぐらいズレることが大事なんじゃないか? 

すべて計算してわざとズラしていくのではなく、程よくデタラメなゆるさを配置しながらここぞというところではパンっと揃える。そうしてまた、気まぐれにデタラメにぱらぱら脱落していく…。そんな群舞はどうだろう?

★ 噺家と演技と涙―――完結編

  • 2006.05.28 Sunday
  • 18:46
さてさて、随分回り道をしたが、最初の問いに帰ってみよう。なぜ噺家のパフォーマンスにおいて「演技」は、「粋じゃない」として忌避されるのか?

結論から言えば、前後の磁場を確保するためである。

私は、「カミシモの磁場」を舞台上に持たないことは、「物語の共有」にとって弱点だと考えている。そしておそらく、噺家たちもそれを弱点として自覚してきたのではないかと思う。それが、彼らをして「粋じゃない」という美意識にこだわらせている、論理的根拠ではないだろうか。詳しく説明しよう。

噺家が「演技」に没頭し、かつそれを観客と共有し損ねるという「粋じゃない」状態に陥った場合、彼らの持つ唯一の場である「前後の磁場」は危険にさらされる。それが唯一、であるため噺家が特にそのことに神経質になるのは当然だろう。それゆえ、彼らは「前後の磁場」を確保することを大変重要視する。
まずは噺をはじめるまえにマクラという雑談(非物語)をフルことで、観客と噺家との関係性を確保する。そして「笑い」によって、その磁場が機能していることを常に確認する。

「前後の磁場」が構築されるためには無論、観客が席に座るまでの勝負も大きい。すなわち、その噺家がどの程度認知され、愛されているのか、の問題である。それは芝居においても同じことではあるが、役者である唐沢寿明が多くの場合、たとえば一休なら一休という、「役」として登場するのに比べ、噺家は常に、枝雀なら枝雀という「本人」として登場しなければならない。だから噺家は自分が誰であるのかを観客に認知してもらうことが非常に重要になる。それはヒロインが無傷の新人であること、処女性を尊ばれることと対象的な現象である。

さて「前後の磁場」の確保をしたのち噺家は「物語」を転がしはじめ、徐々に「演技」をしはじめる。観客がのっているかどうかは「笑い」によって噺家に届けられる。この信号があまり長いこと途切れれば、噺家は「演技」を中断して、マクラの時のような語りのスタイルに戻ることもあるだろう。

枝雀は『花筏(ハナイカダ)』において、ある程度話を進めた後、当時の相撲業界を取り巻いていた状況について説明をし、合意を得た上で再び「演技」に戻る、ということをやっていた。枝雀は自他共に認める、役に没入する「演技」派の噺家であったが、彼でさえそこまで気を遣うのである。

真に驚嘆すべきことを忘れていた。「前後の磁場」への配慮はともかくとして、噺家の「演技」が著しく役者と異なるのは、その「演技」の絶頂にあっても彼らはカミシモを切る―――つまり、一人で三役も四役もやるということである。「カミシモの磁場」が彼に内在しているのはまさにこの瞬間のことだろう。

「演技」というのが一つの「幻覚」の流儀であり、まっとうな判断力の停止をもとめているのであれば、「役」が感極まった場面で人物を切り替えるなどというのはいかにも離れ業のように思える。「演技をしている自分を見ている自分」、という意識の二重化が従来の演技感においては否定的な材料と見なされてきた。「役になりきっていない」というそれである。具体的事例に即して言えば、感極まっているにも関わらず、照明変化にはきっちり対応する、とか、音響のタイミングを逃さない、というような技術。それを私自身からして、二次的なもの、「演技」の犠牲になってもよい部分、と見なしてきた。
その認識をここで改めなければいけないようだ。まっとうな判断力を保持したまま、「演技」に没頭する可能性をわれわれは噺家の「演技」に見出すことができる。すべては同時に起こる。二重化された自己が時間的にズレてしまうことは確かに見ていて面白くも無いことだが、ある瞬間において幾重にもはりめぐらされた役者の配慮が一つになるのはむしろ望ましい。そういう「演技」をこそ私は観たい。


ところで、噺家には「語り手タイプ」と枝雀が呼ぶ、役に没入することなく語りきってしまう、それこそ「粋」な噺家が存在するという。その噺家が必ずしも不出来な噺家と評価されるわけではないから、噺家によっては「演技」という行為を完全に排除しても、「物語の共有」だけで観客を満足させることができるのだろう。時には、噺家が「演技」をしないのに、観客が「役」に対して「演技」をすることで「演技の連鎖」が起きることだってあるのだろう。そこまでいけばそれは、名人芸であることに間違いない。


とまれ、噺家はヒット&アウェイとでも呼びたくなるような奇妙な距離感で、役と語り部の交互の立場をとり、「演技」に没入し切ってしまうことを巧妙に避ける。「役」と「役者」との間にあるズレを彼らは否定することなく、その溝の間を軽業師のような軽快な足取りですり抜けていく。
私はそのヒット&アウェイ戦術を芝居の方法論としても適応しうる「物語」構築のすぐれた方法とみなしている。それがいったい、どんな形をもって芝居の中に顕現するのか。それは、次回作を見てもらうしかない。

★ 噺家と演技と涙―――物語編

  • 2006.05.28 Sunday
  • 16:58
そもそも「物語」とはなんだろうか? ここでは私なりの用語と方法で「物語とは何か」を明らかにしたい。



「物語」≧「世界観」+「プロット」+「登場人物たち」×(「世界観」+「プロット」)



それぞれ説明をしよう。「世界観」とは何か?


「世界観」 ≒ 「物語」内で共有される「前提」や「大前提」の改変。ルール。


である。次に、「プロット」とは何か。あらすじ、話の流れのことである。これは物語を流れる時間のことであり、複数の事件のことである。
必ずしも個々のエピソードの積み上げは「物語」のプロットとは一致しない(たとえば『戦場のピアニスト』の場合、大プロットとしてのユダヤ人大虐殺が、それぞれの登場人物のプロットの外にあってそれを支配している)。

では「登場人物たち」とは何か? それが最大の広がりをもつ場合を図示すると、


「登場人物たち」≒「社会性」
        ≒「共同性」+「共同性」
        ≒「役」+「役」+「役」+「役」…


となる。「登場人物たち」だけが「×」記号になっているのは、一人一人異なった「世界観」や「プロット」を持っているからだ。価値観、という言葉で言えば理解しやすいだろう。厳密に言えば誰だって異なる「世界観」を持っているのだが、それがあまり激しく個人で違えば、お互いがお互いを狂人と見なす世界になるだろう。
本筋のプロットとは別に個々の「役」がプロット、個人史、エピソードを持っていることは了解しやすいと思う。もちろん登場人物が一人しか出てこない場合や、一つの「共同性」についての話もあるだろう。作家の無能力が足かせとなって、異なる価値観をもった人間が登場しない、もしくは差異が優劣に置き換えられてしまう場合も多々ある。そういった場合「登場人物たち」は一人の人間の部分となり、「世界観」や「プロット」も1人の内面を巡る話となる。作者が1人である場合、この傾向から完全に自由になることは不可能だとも言える。


以上、「物語」についての確認を終える。次の論点を整理しよう。



1.噺家はどのようにして「噺≒物語」を観客と共有し、感動に導くのか? 
2.感動のメカニズムは芝居と落語ではどう違うのか?



2つの問題はおそらく同時に解決される。両者の感動のメカニズムを比較しながら明らかにしていけばよいのだ。

まず芝居において「物語」は「カミシモの磁場」という関係性の中を転がっていく。そのことによって「ルールの改変=世界観」は、まず舞台上の「登場人物たち」の間で共有、あるいは分割され、物語全体の持つ「世界観」と「プロット」が関係性の中からあぶりだされてくる。「前後の磁場」を通じて観客もそれを受け取り、受渡しに成功すれば、「物語」が共有されることとなる。

これだけ言ってもよくわからないかもしれない。まずは落語について詳しく見てみよう。落語では「カミシモの磁場」は噺家において内面化されていた。落語において「物語」はまず、どこで誕生するのだろうか?


『胴切り』のたとえを思い出して欲しい。まず胴を切られた主人公は、バラバラになった身体で一人神社の境内に取り残されていた。このままでは「胴切り」という「ありえない現象」は主人公個人の「幻覚」のままである。すべては彼の夢かもしれない。
そこで必要になってくるのが、切断された友人を発見して「おめえなにやってんだ」と話し掛ける知り合いだ。彼が切断された主人公を対象化してやることで、主人公の「幻覚」は個人的なものではなくなり、「胴を切られても命に別状がない」という「ルールの改変=世界観」として、物語内部で共有されたことになる。

もし、この知り合いが主人公に、「なにいってんだおめえの胴は切れていやしねえよ」と言ったらどうなるだろか? 答えはざっと2通り。

1.主人公が我に帰って「ああ、勘違いだった」といえば、物語の「世界観」は一瞬歪んで観客の「世界観」とズレを生じたが、それが補正されたことになる。「緊張と緩和」である。

2.主人公が「なにいってんだ、切れてるじゃねえか!」と主張して知り合いと議論が平行線を辿れば、物語内部の「世界観」は二つに割れる。

観客がそのどちらを共有するかは観客自身の判断に委ねられるが、この場合、「知り合い」の「世界観」を共有し続けることを選ぶ観客が多いであろう。そのほうが観客の「世界観」とのズレが少なくてすむからだ。いわばそれは「常識」に適う話だからである。
このことから「物語」内部で「世界観」が割れた場合、観客の「常識」に適う話のほうが説得力を持つ、ということができる。後に述べる不条理劇の一部では、「常識」に適う人物が誰一人見出せないことがある。

主人公が「切れている」と主張し、知り合いが「切れていない」と主張したそのあとで、さらに次々知り合いがあらわれて、「おう、胴が切れているじゃねえか」といえばどうなるか。その場合、最初の知り合いだけが物語世界の異端であるという構図となり、観客は自分の「常識」に適わなくとも、複数の「世界観」との共有を選ぶ可能性が出て来る。いつでも「常識」は多数派が構成するからである。


さて、話を戻そう。噺家が登場人物に対してツッコミを入れていくのも落語の特徴の一つであるが、噺家が主人公に言及しただけでは、物語の内部で「世界観」が成立したことにはならない。

観客相互において現われる、「客席のカミシモの磁場」を使ってもよいが、まずは「世界観」は本来の「カミシモの磁場」を通して誕生する(「客席のカミシモの磁場」については後に説明する)。

つまり『胴切り』で言えば、枝雀が「この男はこんなことになってしまったんです」というだけでは足りず、主人公が他の登場人物によって対象化され、そこに共同体もしくは社会が出現する必要がある。

★ 噺家と演技と涙―――廃棄編

  • 2006.05.28 Sunday
  • 14:58
ダンスを観た時の感動のメカニズムについて前回考えてみた。
直線的な「演技の連鎖」は、それをよく説明した。が、それで「サッカー観戦」や「格闘技」という演劇は語れても、「落語」や「芝居」といった言葉の関わってくる「演劇」については、つまり「物語」については説明がつかない。



私達を取り囲む「世界」―――私はそれを二つの階層に分けてみる。一つは「前提」、もう一つは「大前提」だ。まずそれぞれの定義から。

「前提」とは法律とか、礼儀といったルールとして意識されているルール。「そういうことになってんじゃないの?」といった、「常識」のようなもの。これは国によってマリファナが合法であるように、変更が可能なルールとして意識されている。

「大前提」とは物理法則とか、歴史的事実といった、ルールとして意識されないルールのこと。時間は逆行しないとか、第二次世界大戦は本当にあった、という「そうじゃないとしたら、どうなっちゃうわけ?」的な、まさしく大前提。変更することが不可能なものとして認識されている「事実」、もしくは意識されることもないようなルール、法則のこと。


もちろんこの区分けは主観的であり、個人的である。「重婚」が許可される国があることを知らない人にとって「一夫一婦制」は「大前提」に属すことかもしれないし、発明によって、「人は空を飛べない」という「大前提」は、変更可能なルールとなった(よってその境界を問題としない時には二つを含め、「ルール」と呼ぶ)。
アインシュタインによって「時間」の相対性が明らかにされたのは、「大前提」が覆されたよい例だろう。それ以前の人間にはそんなこととは思いもよらなかった!


さて、モノマネには「世界観」がなく、落語にはそれがある、とかつて私はいった。そして「世界観」のことを独立した論理体系である、とも言った。それをもう少し詳しく考えてみよう。


「世界観」が「独立した論理体系」であるといっても何から何まで、われわれの社会が持っている「ルール」を覆すものではない。共有部分がある。
たとえば『胴切り』の中では、「働いてお金を稼がなくてはいけない」という「前提」が維持され、「人間はバラバラにされると死ぬ、すくなくとも治療が必要になる」という「大前提」が改変された。その改変部分が「世界観」となって共有される。

問題とすべきは、物語がどちらの階層のルールを変更したかではなく、ルールの変更がどのような範囲で共有されるのか、である。

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