安全保障法制を巡っての、劇作家協会とのあやれこれや。続編。

  • 2016.01.04 Monday
  • 12:15

あけましておめでとうございます。広田です。
年内にまとめを書こう書こうと思っていて、ついつい年が明けてしまいました。

今日は、劇作家協会との件のあれこれについて、その続報について書きます。

年初からあまりウキウキした話でなくて恐縮ですが、さりとて積み残したままでは先に進めない課題だろうと思いますので、ここでひとつ、整理をしておこうと思います。ちょっとばかり長いやりとりですので、まずはこれまでの経緯を紹介しておこうと思います。



ことの発端は劇作家協会が日弁連の声明に対して賛同を示したおり、広田より下記の問題提起を行ったことです。


劇作家協会への質問状、「安全保障法制等の法案」について(微調整版)




そして、劇作家協会からいただいた反論に対しての広田からの再反論がこちらです。


続・劇作家協会への質問状、「安全保障法制等の法案」について(微調整版)



さて。その後の顛末です。
2015年7月31日付けで広田から劇作家協会へ、下記のメールにて再度質問をいたしました。

 

お世話になっております、会員の広田淳一です。
先日、安全保障関連法案について質問をさせていただき回答を頂戴したものです。
本日は、もうひとつ質問があってご連絡さしあげました。お答えをいただけましたら幸いです。


【質問の前提】


・私は劇作家協会の会員です。
・私は今回の安全保障関連法案への劇作家協会の声明には賛同できません。
・ましてや日弁連の宣言への賛同表明には、はっきりと反対の立場です。
・私は、自分の信念とまったく異なる政治声明に賛同しているかのように誤解されることが苦痛です。
・そこで私は、日弁連の声明への賛同に話を限定し、協会として合意を形成する必要はないし、賛意を示す必要もない旨を意見いたしました。
・その結果、「あえて意見表明をされた広田さんの勇気に、敬意を表します。」とのお言葉をちょうだいいたしましたが、今現在、具体的な方針転換は何もなされていないと感じております。
・私は、劇作家協会に賛同声明を取り下げてほしいと願っています。


そこで、質問です。

【質問】

・言論表現委員会の方々は、私のような政治的立場の会員に、どうして欲しいのでしょうか?

私としては現状のような政治的活動を劇作家協会が継続し続けるのであれば、協会員であることによって、演劇とは関係ない部分での自分の思想・信条を大きく偽るような形となってしまい、そのことに精神的な苦痛を感じております。私のような政治的立場の人間に、言論表現委員会、あるいは理事の方々はどうしてほしいと考えておられるのか、ぜひご意見をお聞かせ願いたいと思います。なお、回答は合意文章でなくても結構ですし、どなたからのものであっても結構です。むしろ個人名で回答してもよい、という方がいらっしゃるなら、ぜひ個人名で回答をお願いしたいと願っております。

私は、劇作家協会が、会員に政治的党派性を持つことを強要することのない、広く開かれた集団であることを願っております。
しつこくて恐縮ではございますが、何卒、よろしくお願いいたします。



このメールに対してすぐには返事は来ませんでした。しかし、その間に、劇作家協会はさらに「『安全保障関連法案』『集団的自衛権行使を認める閣議決定』の撤回を求めるアピール」を発表しておりました。ここでは、何故だかよくわかりませんが特定秘密保護法に関する話といっしょくたになって集団的自衛権行使への反対アピールがなされています。このような論の立て方では論点が拡散するばかりですので、僕は特定秘密保護法に関してはここでは触れません。ですが、なぜ言論表現委員会の方々は、こうもデリケートな政治課題に対して劇作家たちがこんな単純な文言の下に連帯しうると判断なさったのか……。その感覚に対しては強く疑義を呈しておきたいと思います。僕にとっては、このような政治運動に巻き込まれるのは、劇作家協会の活動としてはまったく想定外であってとても理解しがたいものです。

当然ながら、僕はこのアピールの内容にもまったく賛同できません。したがって、このアピールへの抗議の意味も込めて再度、質問をいたしました。それが8月13日に広田が協会へ向けて出した下記のメールです。
 

劇作家協会さま

お世話になっております、アマヤドリの広田です。

「安全保障関連法案」「集団的自衛権行使を認める閣議決定」の撤回を求めるアピール 


を、拝見しました。
先日お伺いしたことをもう一度、みなさんにお尋ねしたいと思います。

【質問】

・言論表現委員会の方々は、私のような政治的立場の会員に、どうして欲しいのでしょうか?


政治的アピールも大切なのでしょうが、一会員の声にも耳を傾け、勇気をもって回答する必要があるでしょう。件の質問以降、半月が過ぎましたが、なんの返答もいただけず大変残念に思っております。前回も申し添えましたが、回答は個人でも結構ですし、言論表現委員会の方々でなくとも結構です。お忙しいところとは思いますが、検討中なら検討中と、何か応答をするべきでしょう。どうぞよろしくお願いいたします。



その後、協会より返事をいただきました。
それが下記の内容です。

 

お世話様です。お返事が遅くなりましたが、7月31日付けでご質問
いただいた件につきましてお返事申し上げます。

まず、日弁連への賛同表明の理由につきましては、7月14日付けの
回答でご説明した通りです。
既に申し上げた通り、発表されるのはあくまで法人としての協会の意見
であり、それは代議制に基づく会内手続に従って発せられています。
全構成員の意見が常に一致することなどあり得ないからこそ代議制が
取られており、協会は「政治的不一致があり得るあらゆる問題について
沈黙する」という立場には立ちません。
上記は、会員個人の政治的立場の表明や活動を制約するものではなく、
それ以上に「どうして欲しい」というような要望を協会は出す立場に
ありません。

よろしくお願いいたします。


2015年8月19日

一般社団法人日本劇作家協会 言論表現委員会



それに対してさらに広田より、2015年08月21日付けで、再度のメールをいたしました。

 

劇作家協会 言論表現委員会さま

お世話になっております、広田です。
何はともあれご返信いただけまして、ありがとうございました。

しかし回答を拝見し、ありがたいと思う一方で、木で鼻をくくったような対応とはこういうことを言うのだな、という印象を持ちました。少々、悲しい思いがいたします。そもそも、あの政治的アピールを積極的に出したのはみなさんです。そのアピールは誰に向かってなされているのでしょうか? 少なくとも、みなさんのアピールに最初から賛成の人たちに向けて、ではないはずです。つまり、みなさんがアピールを聞いてほしい人たちとは、最初の段階ではみなさんのアピールに反対の人たちであるはずです。政府与党もそうでしょう。それを支持する人たちもそうでしょう。僕もまたそうでしょう。あの法案に関しての賛否は、国民の間で割れているのです。

僕が劇作家協会の内部で声を挙げた。これはみなさんとしてはチャンスです。なぜこのアピールを出す必要があるのか、その議論を深める絶好の機会です。もっと言えば、そもそも劇作家協会がどの範囲の政治問題にまでコミットすべきか、といった議論を深めるチャンスです。しかるに、今回のみなさんの対応には、僕の問いの核心部分に答えようとする意思を感じることができませんでした。それが残念です。

では、僕の問いの核心部分とはなんでしょうか。僕は、「自分の信念とまったく異なる政治声明に賛同しているかのように誤解されることが苦痛です。」と書きました。そしてそれを前提とした上で、「言論表現委員会の方々は、私のような政治的立場の会員に、どうして欲しいのでしょうか?」という質問をさせていただきました。これは以前僕が書いた、「私は私の思想信条の自由を協会内においてどのように確保していけばよいのか?」という質問と通底する問題です。つまり、――表現に携わる人間が、表現者の協会において、自分の信念とまったく異なる言論・表現に加担させられてしまっていることに苦痛を覚えている。そのことを、みなさんがいかに受け止め、いかに対応するのか。これこそ、言論・表現の問題ではないでしょうか。僕はみなさんに、そこを考えていただきたいのです。

集団というものは、その構成員一人一人の考えが違って当然です。だからこそ、意思決定のために代議制が採用されているのでしょう。しかし、表現者は本来、少数の意見をこそ、つまり、意見の多様性をこそ豊かさとみなす立場に立っているのではなかったでしょうか。多数決などとは無縁のところで、我々は表現を行っているのではなかったでしょうか。

みなさんもまた、多様性を大いに尊重されていることは承知しております。だからこそわざわざ僕と面談の機会を設けてくださり、また、「『どうして欲しい』というような要望を協会は出す立場にありません。」とおっしゃってくださったのでしょう。個人の意思を尊重してくださっているのだと思います。ただ、ここに矛盾があります。みなさんが会員個人の考えを最大限に尊重したいのであれば、「法人としての協会の意見」など最初からまとめなければ良いのです。みなさんは、意見を集約し、集団としてアピールをお出しになった。そして、「協会は『政治的不一致があり得るあらゆる問題について沈黙する』という立場には立ちません。」とお書きになった。当然、このことは多様性を損なう危険をはらんでいるのです。その危険とどう向き合うのか? 僕が協会に問うているのはそこです。

確かに、表現者の集団であっても、ここぞ、という場面では一致団結して戦わなければいけないのかもしれません。今がまさにその時である、とみなさんがお考えになっているのかもしれません。しかし、僕はそう考えていないのです。意見の対立がここにある。ならば、最終的には多数決や代議員によって決定さぜるを得ないとしても、意見の集約の段階では言葉を尽くしてほしいと思います。言葉の力を信じて、対話を行ってほしいと思います。

協会外の人間から見れば、「法人としての協会の意見」は、「協会の総意」とみなされることもあります。当然でしょう。また、総意だと見なされるからこそ、法人としてのアピールは力を持つのです。だからこそ、意見を集約するその時に、まさにそのことが我々の集団から多様性を奪っていく危険を、深く認識しつつ進めてほしいのです。

今回、個人でもよいから回答が欲しい、と申し上げたにもかかわらず、個人としては誰も僕の質問に答えてくださいませんでした。個人名で回答することには緘口令でもしかれているのでしょうか……。残念なことですが、これが、みなさんの政治的アピールの現状だろうと思います。なんとも窮屈な「言論・表現の自由」へのアピールではありませんか! そろそろ僕は、誰と話をしているのかわからなくなってまいりました。

みなさんはあの法案に賛成する人、あるいは、積極的に反対はしない人々と対話をするためにこそ、あのアピールをお出しになったはずです。こういった機会にこそ、みなさんには協会内の声に応え、しっかりと対話の力、言葉の力を見せていただきたい。普段、対話の大切さを説いているはずのみなさんが、いざ実際に意見の異なる人間を前にした途端、組織としての合議の正しさや、手続きの正当さを説明することに終始してしまったことが残念でなりません。どうか、天下国家に向かって政治的アピールをふりかざすよりも、目の前にいる他者を説得するためにこそ言葉を尽くしてください。僕は、目の前の一人を説得することから始まる対話をしか信じることができません。


ちなみに、前々回の回答に対して、僕はこのように再反論しております。
広田個人ブログ

続・劇作家協会への質問状、「安全保障法制等の法案」について(微調整版)


異論・反論があればぜひご意見を賜りたいと存じます。個人でも団体でも結構です。
どうぞよろしくお願いいたします。



上記の僕の問いかけに対して応じてくださった方が、言論表現委員会の中に2名いらっしゃいました。
谷賢一さん。そして、小松幹生さんです。
さらに永井愛さんが公式な回答の代わりのように、2015年08月31日づけでこの件に関しての対談を劇作家協会のwebにupしてくださいました。その他の言論表現委員会のみなさんには残念ながら今日に至るまでなんらの言葉もいただけておりません。どうして仮にも文学者・劇作家ともあろう人たちが自分たちの責任において出したアピールに対してこうまで沈黙を貫こうとするのか? 僕にはこの沈黙の意味がまったく理解できません。 


さて。谷さんは、僕とは友人の間柄ということもあって私信の形でメールをくださいました。つまり、公式な返答ではありませんでしたので、ここに彼の送ってくださった言葉を掲載するのは自粛いたします。しかし、彼自身はあまり積極的にアピールを出したがっていたわけではない、という立場であったことだけは申し添えておきます。つまり、彼とは正面からの議論にはならなかったのです。

小松幹生さんはほぼ唯一といってもよい、正式な回答をくださった方です。それに関してはまた改めて書きたいと思いますが、一介の協会員からの問いかけに対して、真摯に回答をいただけましたことを深く深く感謝しております。救われた思いでした。ありがとうございました。ただ、小松さんもまたアピールを積極的に出したい、出すべきだ、と考えておられるというよりは、アピールを容認する、という立場に近く、これまた正面からの議論には至りませんでした。


結局、積極的にアピールを出したがっているのは誰なのか? 永井さんだけは顔を見せてくださいましたが、残りの方々のことはわかりません。言論表現委員会の方々もみなさん、それぞれにお忙しい立場でしょうから返信に時間がかかっているだけかもしれないと考え、今か今かとお返事を待ってみたのですが、今日に至るまで何の反応もありませんでした。

言論でやりとりをする覚悟が無いのならば最初から政治的アピールなどお出しにならなければ良いのになあ、というのが僕の正直な感想です。僕はこの件に関しては、まったく納得していません。そろそろ僕のような人間が協会の方々とともに歩むことは難しいのだろうな、ということもわかってまいりました。ただ、有意義な協会を創ってくださった先輩たちへの敬意を僕なりに抱いているつもりでおりますから、焦らずゆっくり、それでも、今年中にはなんらかの結論を僕なりに出そうと考えております。

長文、お付き合いいただきましてありがとうございました。
今年は、いろいろと自分の考えをちゃんと言葉にして発信していく年にしてまいりたいと思います。


 

『土神と狐』@山の上ギャラリー

  • 2015.12.13 Sunday
  • 09:26


2015年12月12日(土)、大船にある「山の上ギャラリー」という会場で読み語りのパフォーマンスをやってきました。



小林裕児の絵画と共に物語を楽しむパフォーマンス
〜音楽と読み語りによる宮沢賢治〜

『土神と狐』

作・宮澤賢治/演出・広田 淳一 
【出演】 内田 慈
【演奏】 斎藤 徹(コントラバス奏者・作曲家)
 


てな企画。1月15日に中野・ポレポレ坐にて再演することが決定しておりますので、その時の様子を写真で追ってみたいと思います! でも肝心の本番写真は一切ありません……。



朝10時、大船着。駅を降りるとすぐ見える大船観音。まぢデカい。まぢ怖い。



タクシーで10分くらい行くと山の上ギャラリーに到着!
ギャラリー内はこんな雰囲気です。裕児さんの絵画やオブジェがいっぱい。



木片に描かれた絵。木を切り出して、いい形にするところから作業が始まるそうです。



これも木片に書かれた絵。背景の山や建物と響き合うようでした。
んー。しかし、美術品の良さというのは僕の下手っぴな写真ではなかなか伝えるのが難しいですね……。
実物はもっとずっとステキなのです。



二階にも所狭しと作品が展示してあります。蛇腹に折られたスケッチブック。ひとつの物語が感じられる連作が描かれています。





建物も、古民家を移し替えたものですばらしい雰囲気。窓が大きくてそのすぐ向こうは森でした。
ここが本番の「舞台」になりました。



控室近辺はこんな感じ。



本番に備えてお掃除。


玄関に飾られた花。



枝ぶりのよい木。


お出迎えしてくれるワンコは作品です。



一本木で作られた腰掛け。



窓の向こうは田園風景。窓枠には模様ガラス。



とか言っているうちに本番の時が近づいて参りました……。


齋藤徹さんのコントラバスと、かっちょいい譜面台。


このコントラバスは100年以上前に作られたそうです。ネック部分はライオン。



で、このあと、読み聞かせをやりましたとさ。人物写真がまったく無いという失態……。



 

続・劇作家協会への質問状、「安全保障法制等の法案」について(微調整版)

  • 2015.07.15 Wednesday
  • 10:49

 
「一般社団法人日本劇作家協会 言論表現委員会」より、2015年7月14日づけで広田の質問に対する回答が届きました。劇作家協会の真摯な対応に感謝するとともに、やはり埋めがたい大きな溝を感じているわたくしです。

ここに広田の質問と、その回答全文を掲載し、再度反論をさせていただきたいと思います。反論? いや、感想にすぎないのかもしれませんが、とにかく、僕は自分の考えを自分の言葉で書いておきたいと思います。元記事はこちらです。


まず、第一の質問。

 
【1】 仮にも文学者の集団である劇作家協会が、独自の言葉を紡ぎだして会員の同意を得る、というプロセスを経ることもできず、日本弁護士連合会の方々の宣言に便乗するような形を取ることについて、どう考えておられるのか。
 
(回答)劇作家協会は、必要に応じてしばしば独自の声明を起草し、発表しています。今回は緊急性にも鑑み他団体の声明に賛同した形ですが、そのこと自体に問題があるとは思えません。社会に発信された重要なメッセージを受け止め、伝達することも表現者の役割かと思います。

(広田の反論)これに関しては僕はただ、恥ずかしいだけです。仮にも、劇作家が協会として意思を表明するのであれば、自分たちの言葉を持っていて欲しい。それができないならあえて意見を出すまでもないでしょう。「社会に発信された重要なメッセージを受け止め、伝達することも表現者の役割かと思います」とのことですが、そういったことは個人で行えば十分ではないでしょうか。

 
続いて、第二、第三の質問と回答を提示します。
そののち、それに対しての反論/感想をまとめて述べます。


【2】劇作家協会は、言論・表現の自由の問題に直接的に関与するとは言いがたい今回のような政治問題に今後とも関与していくつもりなのか。そうであるならば言論表現委員の方々と政治的な立場を異にする僕のような人間は、どうやって自分の思想信条の自由を協会内において保っていけばよいのか。(もちろん劇作家協会が代議制をとっていることは承知しておりますし、僕は協会としての意思決定を理事の方々に委任している自覚をもっております。ただ、僕は現在のところいかなる政治運動団体にも関わろうと思っておりませんので、こういった政治活動に加担させられていく状況に混乱しております)
 
(回答)今国会で審議されている安全保障関連法案について、私達は言論・表現の自由と深く関連する問題だととらえています。
協会で最初に政治的アピールを出したのは2003年1月のことでした。言論・表現・報道規制法案といわれた6法案への反対でしたが、初めてのため、とても時間がかかりました。2002年5月の理事会で協議があり、問題理解のため座談会も企画し、協会員全体の総会にもはかり、国会への二度目の法案提出の際にぎりぎりでアピールを提出しました。その後、内容と今後の活動方針に関する会員アンケートもとり、その公表もしています。
こうした経緯を経て、協会では表現の自由・知る権利など劇作家の活動の根幹に関わる問題について、以後もボランティアの委員たちが議論を重ね、必要と考える意見表明をおこなって来ました。表明の是非はその都度代議制による理事者の審議で決しており、あくまで法人としての協会の意見を公表するものですが、常に会報などで会員への趣旨説明と周知をはかっています。
昨年(2014年7月14日)、協会は『集団的自衛権行使を認める閣議決定に抗議し、撤回を求める緊急アピール』を発表しました。全文はHPでご覧いただけますが、その主旨は、「閣議決定による解釈改憲は重大な憲法違反であり」「政府が手続き抜きで憲法さえ変えて良いなら、表現規制にも何らの歯止めもないことになり、権力に都合の悪い表現・言論が封殺されかねない」というものでした。「全ての表現者・言論人の活動の礎は、憲法の根本原理たる市民的自由」であると考えるからです。そして、その末尾で「この閣議決定に基づく全ての法案提出にも反対します」と表明しました。
今回の安全保障関連法案は多くの憲法学者が違憲と指摘する通り、憲法改正の手続さえ踏まず、実質において憲法の明文を無意味化するものです。日弁連のアピールもその点を問題視するものであり、従来の協会の意見表明と問題意識を一にするものとして賛同しました。いずれの際にも理事者の審議を経ており、昨年のアピールは会報でも趣旨説明をおこなっています。
 
【3】劇作家協会は井上ひさし初代会長による「子どものためにクリスマスの劇を書いたお父さんも入会できるように」という理念を今も掲げていると存じます。で、あるならば、なぜ政治的な不一致を招くことが明白である今回のような事案に関して、団体として賛意を示す必要があるのか。また、すでに「非戦を選ぶ演劇人の会」という場所があるにもかかわらず、なぜそのような主張を劇作家協会本体で行うのか。
 
(回答)「クリスマスの劇を書いたお父さんも入会できる」とは、いわゆるプロの劇作家にとどまらず、自らを劇作家と認めた全ての方が加入できるという協会の資格要件を説明した言葉です。そして、そうした全ての劇作家の取材活動と表現活動を支える、市民的自由を守るために必要な意見表明(賛同表明を含む)は、協会の重要な役割であり他団体に任せるべきものではないと私達は考えています。
協会の関わる多くの問題は多分に政治的ですが、「政治的不一致があり得るあらゆる問題について沈黙する」という立場には立ちません。協会はそのための意思決定方法として選挙を中核とする代議制を取っており、発表されるのは法人としての協会の意見です。理事者は、劇作家と社会の市民的自由を守るために必要と判断した意見表明を10年以上にわたって行っており、その上で会員の皆さんの付託を受けていると考えています。
ただ、言うまでもなくどこまでが劇作家の活動を支えるために必要な意見表明であるかは、不断の検証と議論をおこなうべき問題であり、その点で今回の広田さんのご意見は示唆に富む、大変傾聴に値するものでした。
あえて意見表明をされた広田さんの勇気に、敬意を表します。そしてそうした意見表明の自由が保証される社会を守るために、協会にできる役割を今後も考え続けたいと思います。

(広田の反論)問い2・3に関しては、僕の質問の前提である「今回のような政治問題」は「言論・表現の自由の問題に直接的に関与するとは言いがたい」という認識を受け入れてもらえなかったようです。これは、どうしたって程度問題になってしまいますので認識の差を埋めるのは難しいですね……。結果として僕の望むような形で議論は深まりませんでしたが、それは、僕の質問の仕方も悪かったのでしょう。

僕は、今般の安全保障関連法案は、言論・表現の自由と直接的には関係のない政治課題であると思います。もちろん広い意味では関係するでしょう。ですが、あらゆる政治課題は広い意味では言論・表現の自由に関係してきます。劇作家協会がどこまで政治について態度表明を行っていくのか、僕にはその歯止めがわからず、混乱しているのです。僕は、回答文にあるような「私達は言論・表現の自由と深く関連する問題だととらえています」という立場も、協会内にあってよいと思うのです。様々な立場の劇作家が協会内にいるのはとても健全です。だからこそ、あえてひとつの立場に寄り添って意見表明する必要は無い、と言っているのです。――安全保障関連法案は、安全保障に関する問題であって、言論・表現の問題ではない。僕はそのように考えています。

では、言論表現委員会の方々はなぜ「言論・表現の自由と深く関連する問題だ」と認識しているのでしょうか? みなさんが理由として挙げておられるのはおそらくこの部分でしょう――「政府が手続き抜きで憲法さえ変えて良いなら、表現規制にも何らの歯止めもないことになり、権力に都合の悪い表現・言論が封殺されかねない」。確かに、論理としてはわかるような気もします。ですが、どうもここにはある種の飛躍があるとも感じます。そして、論点が安全保障の問題から憲法の問題へとシフトしていることを感じます。

そもそも「政府が手続き抜きで憲法さえ変えて良い」などという主張を、誰がしているのでしょうか? 言論表現委員会の方々には政府与党のやり方がそう見えているのかもしれません。ですが、僕が知る限り、政府はそんなことを主張していません。彼らは「この法案は合憲である」と主張しているのです。これは「政府が手続き抜きで憲法さえ変えて良い」という主張とはまるで違います。ここを混同しては話が混乱していってしまうでしょう。

では、この法案は合憲なのでしょうか? 違憲なのでしょうか? 僕には、そんなことはわかりません。いや、正確には、僕には「判断不可能だ」ということがわかります。というのも、現実として憲法学者たちの意見さえ割れているからです。違憲派(小林節氏・木村草太氏など)の意見にもなるほど納得のいく部分が数多くありますし、合憲派(百地章氏・井上武史氏など)の意見にも納得できる部分があります。もちろん、圧倒的多数の憲法学者が違憲派であることを忘れてはいけません。と、同時に半数以上の憲法学者が現在においても自衛隊を違憲だと見なしていることもあわせて考えてみなければいけません。さらに、いわゆる砂川判決を論拠とする集団的自衛権合憲論にも、一定の説得力はあるように感じますし、国際政治学者の同志社大・村田晃嗣学長が国会で述べたように「学者は憲法学者だけではない」ということも考慮しなければなりません。村田氏は言っています、「もし、今回の法案についての意見を、憲法の専門家の学会だけでなく、安全保障の専門家からなる学会で、同じ意見を問われれば、多くの安全保障の専門家が今回の法案に、かなり肯定的な回答をするのではなかろうか」(詳しくはこちら)。まあ、そういうものなのかもしれません。

要するに、意見は割れているのです。そしてこの問題は、単に「合憲か、違憲か?」と考えていれば済む問題とは思えません。というのも「合憲であっても有害な法案」は存在するはずですし、「違憲であっても有益な法案」というのもまた、存在するはずだからです。もちろん、立憲主義は大切です。憲法をなしくずしに変更するべきではないでしょう。しかしまた、現行憲法にこだわって現実の安全保障問題をないがしろにするべきでもありません。何にもまして守らなければならないのは、国民の生命・財産であって、「現行憲法」ではないからです。ですから僕は、「憲法に合致していても、有害な法案は要らない」と考えますし、また、「憲法に合致していなくても、有益な法案があるならば、憲法を変えた方がいい」と考えます。ただ、今回の法案にまつわる議論からもよくわかったように、憲法改正の議論を始めると賛成・反対に関わらず、ヒステリックかつ感情的な態度を示す人が多すぎるように思います。お互いにレッテル貼りをして、相手を狂信者扱いしているような状態ではとてもまともな議論ができる環境とはいえないでしょう。
 
ともあれ、今般の安全保障関連法案に対しては、賛否が激しく分かれています。僕は、どちらの方々も戦争をしたがっているわけではないと信じています。賛成派の方々も、反対派の方々も、それぞれに戦争を遠ざけるための最善の手はなにか? ということを考えて議論を行っているのだと思います。これは、どちらかが、一方的に正しいとか間違っているとか言えるような単純な議論ではありません。「戦争をしたくてウズウズしている」人が賛成しているわけでもないし、「日本が亡んでしまっても構わない」人が反対しているわけでもない。双方、国民の生命・財産を守るためには何がいちばん大切なのか、それを考えているはずです。そしてその時に、国内の暴走する政治家をより恐れているのか、国外の暴走する国家をより恐れているのか、という立場の違いがあるのでしょう。ですから、こんな時にこそ対話が必要なのではないでしょうか? どちらの脅威がより現実的で、対応する必要のある危機なのか、しっかり比較して吟味する必要があるでしょう。今こそ、国民の生命・財産を守りぬくための真に有効な安全保障環境とはなにか、という本質の議論をするべき時でしょう。国会においても今回、ほとんどそういった議論がなされなかったことは与野党ともに大いに反省すべきことです。そして、同様の反省をまた劇作家協会もするべきでしょう。もちろん、僕も含めてです。

憲法9条二項と自衛隊/日米安保/国連憲章の間に横たわっている矛盾についても、根本から見なおすような議論があってよいでしょう。僕は以前から、どうもそれらの間には整合性がないように感じるのです。誤魔化しと矛盾の中で現在の安全保障環境が成立してきてしまっているからこそ、今般の安全保障関連法案のようなグレーな法案が出てきてしまうし、「憲法違反だ!」と声高に叫んでみても、それが建前論にしか聞こえない人たちが出てきてしまうのでしょう。
 
以上のような認識から、やはり僕はどうしても日弁連の声明には賛同できません。ああいった一面的なものの見方からは決して対話は生まれないと信じるからです。お互いを悪魔化するような態度では議論が矮小化されるばかりです。この問題は、賛成派と反対派と、双方が存在していて当然です。ですから、協会として反対の立場を鮮明にすれば、協会内の賛成派、あるいは積極的な態度保留派の声を無視することになるでしょう。確かに僕も「政治的不一致があり得るあらゆる問題について沈黙する」べきだとは思いません。しかし、このような明白に対立が存在する政治課題において、協会としての合意を形成する必要はないと信じます。劇作家協会は、政治団体ではないからです。

僕は、劇作家協会に所属していることで、なぜだか自分の信念とまったく異なる政治声明に賛同させられてしまうことになりました。そのことに、強く違和感を覚えています。賛成派、反対派、双方の存在を認める協会であってほしい。そうでないなら僕のような人間の居場所はない。政治的な意思表示は、劇作家が個人の責任において存分に行えばよいではありませんか。
 

劇作家協会への質問状、「安全保障法制等の法案」について(微調整版)

  • 2015.07.06 Monday
  • 22:26

昨今のニュースを観ていて「あれ、もしや?」と思って日本劇作家協会のサイトを覗いてみたら案の定、こういった記事がupされていました……。

「安全保障法制等の法案」について

僕は賛同しません。
僕には日本弁護士連合会の声明があまりにも偏向しているように感じられますし、政治問題を語るときに弁護士の権威を借りるつもりはないからです。劇作家協会にいるからには、こういった政治的な宣言に賛同しなければならないのでしょうか。僕はその必要を感じません。少なくとも僕個人としては、今のところ徒党を組んで「運動」に加担するつもりもありませんし、自分の言いたいことがあれば自分でいいたいと思っています。
 
もちろん、日弁連の宣言に賛同したい劇作家の方々は自由にすればよいでしょう。まったく反対するつもりはありません。だから、同様に宣言に賛同しない自由も協会内にあっていいと思うのです。なぜ、このような国民的に意見が割れている案件で、協会としてどちらかの立場を表明する必要があるのでしょう? 僕も劇作家協会を辞めたいわけではありませんが、こういった宣言にずるずると加担させられていってしまうのは、とても困ります。きっと、これから入会を希望される方にも無用のハードルと感じられてしまうことでしょう。

僕は、そもそも、劇作家たるものは完全な政治的中立という立場を取り得ないものと考えます。人間について、あるいは社会について作品を創り、何かを描き、発表するという行為は、必然的にある種の政治性を帯びてしまうからです。ですから、劇作家協会のような表現者の集団が政治的一致の下に団結し、ある種の声明を出す、あるいは賛同の立場を示すということは、よっぽど明白な言論の自由に対する侵害があった場合などに限定されるのではないでしょうか。いや、何が「明白な言論の自由に対する侵害」なのかについても議論が割れることでしょう。まさに今回、起きていることがそのような認識のズレであるようにも思います。

集団として声明を出すからには、その集団はある種の政治的党派性を帯びていきます。僕はそんなことを望んでいません。おそらく、協会の方々もそうなのではないでしょうか。僕が望んでいるのは、各劇作家の政治的独立を、協会には保障していただきたいということです。いろんな考えの劇作家が所属している方が、協会がおもしろくなるのではないでしょうか。

政治的な主張は個人でもある程度できる時代です。いや、声をあげるためにはいくらでも別の方法があります。デモに行ってもよいでしょう。個人のSNSを使ってよいでしょう。出版物で訴えることもできますし、また、実際に自分の支持する政治団体に参画することも可能です。なぜ、劇作家の協会がそういった活動をぜひともしなければならないのでしょうか? しかも、劇作家協会がこのような声明を出すことに、政治の側は大して注意を払っていないでしょう。今回のように日本弁護士連合会の主張に便乗するという形では、なおさら表現者としての迫力をアピールすることにはならないように思えます。おそらく、安全保障問題に関して劇作家協会の動向を注視している方はとても少ない。それで、いいのではないでしょうか?

と、いったわけで、劇作家協会に下記の質問状を出しました。


【1】 仮にも文学者の集団である劇作家協会が、独自の言葉を紡ぎだして会員の同意を得る、というプロセスを経ることもできず、日本弁護士連合会の方々の宣言に便乗するような形を取ることについて、どう考えておられるのか。

【2】 劇作家協会は、言論・表現の自由の問題に直接的に関与するとは言いがたい今回のような政治問題に今後とも関与していくつもりなのか。そうであるならば言論表現委員の方々と政治的な立場を異にする僕のような人間は、どうやって自分の思想信条の自由を協会内において保っていけばよいのか。(もちろん劇作家協会が代議制をとっていることは承知しておりますし、僕は協会としての意思決定を理事の方々に委任している自覚をもっております。ただ、僕は現在のところいかなる政治運動団体にも関わろうと思っておりませんので、こういった政治活動に加担させられていく状況に混乱しております)

【3】 劇作家協会は井上ひさし初代会長による「子どものためにクリスマスの劇を書いたお父さんも入会できるように」という理念を今も掲げていると存じます。で、あるならば、なぜ政治的な不一致を招くことが明白である今回のような事案に関して、団体として賛意を示す必要があるのか。また、すでに「非戦を選ぶ演劇人の会」という場所があるにもかかわらず、なぜそのような主張を劇作家協会本体で行うのか。


以上です。このことに対して、劇作家協会は非常に真摯に対応をしてくださいました。早速、先日、高円寺の劇作家協会事務所にて言論表現委員会の方々と話し合いの機会を持つことができました。なんの役員でもない、一会員の意見に対してわざわざ複数の委員の方々が時間を割いて意見を聞いてくださったことに感謝しています。現在、言論表現委員の方々からの書面での回答を待っているところです。すでにメールで返答をくださった委員もいらっしゃいましたが、それはその方の個人の見解ですので、ここに掲載することは見合わせたいと思います。

【付記】

僕は日本の演劇界には、横のつながり、ネットワークが必要だとかねてから感じてきました。ただでさえ小さい業界なのに、横断的に人とつながるためのネットワークが整備されていないため、とても見通しが悪い業界になってしまっていると感じるからです。強力な団体が必要だとは考えていませんが、何かふとした時に役立つ、全国的なネットワークのようなものがあれば便利なのになあ、と感じています。

職能団体としての権益を確立する、といった、ある種の目的意識をもって活動している劇作家協会と、僕の勝手に夢想しているゆるいネットワークというものの間には、ある程度の隔たりがあるのだなあ、ということが今回の件でわかりました。新しい団体を次々に立ち上げていくというよりは、既存のネットワークをなんとかうまく利用していけないものかと思っているのですが……。なかなか簡単にはいきませんね。


 

『悪い冗談』 「悪と自由」の三部作、vol.3 @東京芸術劇場 シアターイースト

  • 2015.03.27 Friday
  • 05:11
アマヤドリ本公演『悪い冗談』、ただいま東京芸術劇場、シアターイーストにて上演中です!
くわしい公演情報はこちらまで!

 
……さて。ここでは、全文書くと長くなってしまうだろうと思って掲載を控えた、『悪い冗談』戯曲の前書きを全文掲載いたします。舞台作品を観る前にくどくど解説なんて聞きたかねーよ、と僕自身考えているので、もちろんこんなものを読まなくても楽しんでいただける作品に仕上げたつもりです。しかしまあ、いろいろと創作者側の意図を知りたいと思ってくださる方もいるようですので、僕としても販売用戯曲ではすでに公開している戯曲の前書きをここに紹介したいと思います。


【『悪い冗談』前書き】

 
今作では舞台上に「裸の時間」を提示したいと思います。まず、そのことについて書きます。
 
観客は普段、それぞれが社会の中で別々の時間を生きています。「今はテスト期間中だ」という高校生もいるでしょう。「仕事が休みだったのでふらっと来た」という会社員もいるでしょう。そうした人々が劇場という場所を共有し、舞台作品の中を流れる「物語の時間」を共有すること、――それが演劇体験であると広く信じられてきました。もちろんそれは間違いではありません。ただ、舞台上に「物語の時間」を作り出してそれを共有するという試みは、「社会の時間」の内部にもうひとつミニチュアの枠組みを作っているだけではないのか、とも思うのです。そんなわけで、今作ではそれとは少し違うことを目指してみようと思います。どうやら私は舞台上に「社会の時間」の外部、いわば「裸の時間」とでもいうべきものを露出させたいと願っているようです。では、それは一体どういうものなのでしょうか?
 
そもそも劇場に来るまでもなく、「社会」や「世間」というものがひとつの「物語」――フィクションであると言えるでしょう。それぞれの社会にはそれぞれに固有の「物語の時間」が流れている。たとえば、「戦後◯◯年」という区切りはある社会にとっては有効でしょうが、また別の社会にとってはなんの意味もないはずです。また、「クリスマス」や「旧正月」、あるいは「夏休み」や「お母さんの誕生日」という特別な時間も、特定の個人や社会にとってしか意味を持ちません。ですから、「特別な時間」というものがどこかに存在しているわけではなく、あくまで、それぞれの社会や個人がそれぞれにとっての「特別な時間」を設定しているにすぎないのです。
 
もちろん、誰だって旅先なんかで、ふと、空を見上げて、「ああ、時間がゆっくりと流れているなあ……」という感慨を抱くことはあるでしょう。でも、実際に時間の速さが変わるわけではありません。人間の意識の方が変わるだけです。時間というものはいつでも、ただ単に流れているだけです。おそらく、人類とか生命とかが誕生するはるか以前から時間というものはただ単に流れていたのでしょう。その、「ただ単に流れているだけの時間」、それを指して私は「裸の時間」と呼ぶことにしました。そして今回は、それを舞台上に露出させたいのです。なぜ、そうしたいのか? 次にそれを書きます。
 
私はこれまで、物語のある演劇作品を作ろうとしてきました。戯曲を書くときには筋書きのわかりやすさや登場人物たちの心情、どのぐらい共感できるか、ということを大切にしてきました。それは舞台作品を通じて観客にひとつの「物語」を楽しんでもらいたかったからです。
 
だから私は「物語」をうまく伝える方法についてずっと考えてきました。そして、最も効率よく「物語」を伝えるためには、舞台上でもすべてのことが効率よく、つまりは計算通りに進まなければならないと考えるようになりました。つまるところ、私にとってのいい舞台作品というものは、よくできた脚本と、よく稽古された俳優/スタッフたちがそれをミスなく進行していくことによって産み出されるものだったのです。しかし、それは本当でしょうか? もし、「物語」の進行に奉仕するために、俳優が今、そこに生きているという現実や、そこに流れている「裸の時間」が排除されてしまうのだとしたら、それは本当に舞台作品にとって豊かなことなのでしょうか? 私はそこに疑いを持ったため、その枠組の外に出たいと望むようになったのです。
 
最後に、いかにして「裸の時間」なるものを露出させるのか? その方法について、現在私が考えていることを説明します。普段、演出家というものは舞台作品の内部で自分が様々な決定権を持っていると信じています。好きなタイミングで俳優を登場させたり、光を明滅させたり、音楽を流したり、あるいは火をつけることだってできる――そんな風に信じています。その感覚というのは、「自分が何かを決定しなければ、舞台上には何も起こらないのではないか?」という不安と表裏一体のものといってもよいでしょう。けれど、それもまた勘違いではないかと思うのです。演出家が何を指示しなくても時間は流れていきますし、空間はそこにあります。人間もまたそこにいて、きっと何かをするでしょう。私はいま、そういった当然の事実を肯定するところからもう一度演劇を始めてみたいと思います。何か新しいことをしようというのではありません。ただ、これ以上そこに実際にあるものを見逃したくはないだけです。(2015年3月27日加筆修正)
 
作・広田淳一

てなわけで、穂の国の『転校生』

  • 2014.10.30 Thursday
  • 12:09

いよいよ近づいて参りました、穂の国の『転校生』。
豊橋でやってます。
いろんな人に観てもらいたい作品になりました。







『転校生』は、劇作家・演出家・青年団主宰の平田オリザ氏の作・演出で、1994年11月に東京の青山円形劇場にて、公募により選ばれた 21人の女子高生の出演によって上演されました。
この戯曲は「演劇批評の対象になる高校演劇を」という目標のもと書かれ、実際に劇評の対象となりました。同時に、若手劇作家の登竜門である岸田戯曲賞ノミネートの候補にまであがりました。
そして20年後の今年11月に、気鋭の劇団アマヤドリ主宰の広田淳一氏の演出により、公募により選ばれた21人の高校生キャストの出演、そして熱意をもって応募してきた学生スタッフが、劇場とプロのスタッフとともに『転校生』を上演いたします。


 

「総勢21人。体のエネルギーで魅せる会話劇」


一見、女子高生がひたすらお喋りをしているだけのこの戯曲。彼女たちの日常の断片に「生まれる」ことと「死ぬ」ことがさりげなく配置されています。転校、変身、混迷する世界情勢、そんな重たい話題もすべて「うどん食いてー」と同じ次元で語られます。

平田オリザ氏の代名詞ともいうべき“同時多発”する会話も満載です。やわらかい口語で書かれた傑作戯曲を、私、広田の演出で体のエネルギーを中心に据えた会話劇へと転生させてみたいと思います。

元気すぎる21名の女子高生とともに、はたしてどんな舞台が立ち上がってくるのか? 

僕自身、とても楽しみにしています。            


演出 広田淳一


【出演】


伊藤由佳、奥田咲菜、神村友美、琴屋菜緒子、白井なつ美、白木菜々美、杉高 茗、鈴木彩音、田中友梨奈、中神真智子、西川結実、羽田千尋、花井優海、早瀬さくら、彦坂祐衣、兵藤真世、古田夏帆、松井瀬奈、松尾理代、松坂瑠依、宮本 歩(五十音順)


【スタッフ】


作:平田オリザ/脚色・演出:広田淳一
美術:杉山 至
照明:木藤 歩
音響:小笠原康雅
 

【公演日程】


2014年11月01日 (土)19:00
2014年11月02日 (日)13:00※/19:00
2014年11月03日 (月・祝)13:00/17:00

開場は開演の30分前
※11月2日(日)13時公演終演後にトークあり。


【チケット料金】


全席自由・日時指定

入場整理番号付き
前売販売:2014年09月14日 より

一般:2,000円
U24:1,000円(24歳以下対象/入場時要身分証明書提示)
高校生以下:500円(高校生以下対象/入場時要生徒手帳提示)


【お問い合わせ】


穂の国とよはし芸術劇場
〒440-0887 豊橋市西小田原町123番地
TEL:0532-39-8810 FAX:0532-55-8192 http://toyohashi-at.jp
 

『非常の階段』2014年9月、アマヤドリ本公演のお知らせ。

  • 2014.07.24 Thursday
  • 05:01





アマヤドリ2014三部作「悪と自由」のシリーズ vol.2 

『非常の階段』作・演出 広田淳一

2014/09/12(金)-2014/09/21(日)@吉祥寺シアター  



 

【ご挨拶】 「自由」の反対って?

 

さて。「悪と自由」をテーマにお送りしている今年のアマヤドリですが、今作は特に「自由」にフォーカスして創作をしていきたいと思います。そこでまた「悪」やら「自由」やらについてあれこれと考えてみたんですが、ふと、「自由」の反対ってのは「平等」ってことなんじゃないのか? というアイディアが浮かびました。言ってみりゃ、「平等」ってのは「不自由」の別名ではないかしら? と、そんな着想を出発点に物語を作ってみようと思います。
 
舞台は現代とは少しだけズレた所にある日本。登場するのは、とにかくどんな手を使ってでも生き延びて行こうとする図々しい奴らです。あるいは、そうしなければいけない立場にいる、弱い人たちです。
才能豊かな客演陣といつものアマヤドリ・メンバーで、フルサイズの演劇をお届けいたします。うだるような夏が終わりを迎えるころ、劇場でお会いできることを楽しみにしております。
 
アマヤドリ 作・演出・主宰 広田淳一




【出演】



笠井里美

松下仁

糸山和則

渡邉圭介

小角まや

榊菜津美

沼田星麻(以上、アマヤドリ)

 

伊藤今人(ゲキバカ/梅棒)

宮崎雄真

藤松祥子

内野聡夢

レベッカ

中野智恵梨

上野みどり

足立拓海

 

KEKE

倉田大輔 




【スタッフ】



舞台監督   渡辺武彦

舞台美術   中村友美

音響     田中亮大(Paddy Field)

照明     三浦あさ子(賽【sai】)

衣装     矢野裕子

演出助手   木村恵美子/犬養真奈/真当哲平/シロ/後関貴大

宣伝美術   山代政一

Web    堀田弘明

制作     梅村千尋 

制作協力   Real Heaven

協力     A-Team/株式会社エヌウィード/(有)レトル/テノヒラサイズ

企画製作   アマヤドリ

主催     合同会社プランプル

協力     (公財)武蔵野文化事業団

助成     芸術文化振興基金助成事業




【公演日程】



2014/09/12(金) 19:30

2014/09/13(土) 14:00/19:00

2014/09/14(日) 14:00/19:00

2014/09/15(月) 15:00

2014/09/16(火) 19:30

2014/09/17(水) 19:30

2014/09/18(木) 14:00/19:30

2014/09/19(金) 19:30

2014/09/20(土) 14:00/19:00

2014/09/21(日) 14:00

 

携帯からの予約はこちらをクリック!



【チケット料金】



【一般】前売り 3500円 / 当日 3800円

【学生】前売り 2500円 / 当日 2800円

【高校生以下】前売り 1000円 / 当日 1300円

【アルテ友の会】会員価格 3200円

 ※アルテ友の会は武蔵野文化事業団チケット予約にて前売りのみ取扱い


【フリーパス】5500円

【学生フリーパス 】4000円

【プレミアムフリーパス】10000円(別途特典あり!)

【タダ観でゴー!】 0円(枚数限定・劇団予約のみ)



◇フリーパスとは?◇


前作ロングラン公演『ぬれぎぬ』にて好評を博したフリーパス! 本作を何度でもご覧いただけるのがこのフリーパスです。何度でもご覧いただけるのに、この価格! 無理、してます。旅は道づれ、世は情け。よろしければ本番期間を通じて私たちが何を考え、何に向かって創作を行っているのかを存分に味わっていただければと思います。道中、ご一緒いただける方はぜひともフリーにパスしてやってください!

 

◇プレミアム・フリーパスとは?◇


フリーパスにさらに特典がついたのがこちらのプレミアム・フリーパス。公演DVDやアマヤドリ・オリジナルグッズがついてくるとともに、「アマヤドリはわしが育てた」と堂々宣言する権利がついて来ます。


◇タダ観でゴー!◇


試食は無料の精神にのっとり、アマヤドリを初めてご覧になるお客様を各ステージ3名様まで無料モニターとしてご招待いたします! 演劇観るほどヒマじゃない、そんなあなたに観て欲しい。詳細は劇団までお問い合わせください。




【ご予約】



アマヤドリ http://amayadori.sub.jp/ TEL 090-2936-2116(劇団)

イープラス http://eplus.jp/

武蔵野文化事業団チケット予約 

0422-54-2011 https://yyk1.ka-ruku.com/musashino-t/

CoRichチケット http://stage.corich.jp/

※当日券の販売は各回開演の45分前となります。


 


【会場】

 

吉祥寺シアター


180-0004 東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目33番22

TEL 0422-22-0911

JR中央線・京王井の頭線吉祥寺駅北口下車 徒歩5分

※駐輪場有り(オートバイ・スクーター及び原動機付自転車は不可)

※駐車場はございませんので、ご注意ください。

どうにもうまく言えないけれど……

  • 2014.07.24 Thursday
  • 04:54

今年になってから何度か僕は、演劇界の一部に流れている(と僕が感じる)いわゆる戦後民主主義的な雰囲気に異を唱えるような発言を行ってきた。が、どうも自分の言いたいことをちゃんと言えないもどかしさがあった。個別の政治的イシューについてであれば僕にもそれなりの考えがあったから、ついついそれについての反論や主張をしてしまってきたのだけれど、どうも本当に言いたいことはそういうことではないような気がする。「九条やめたら運が逃げますよ」の鼎談参加者や野田秀樹さんが、たとえば731部隊について、たとえば集団的自衛権について何らかの意見を持ち、それを表明することに対しては僕は本当はどちらでもよいような気がしている。いや、今までの反論をここで覆すつもりは一切ない。ただ、個別の問題についての政治的な正しさ、あるいは歴史的な正しさを論じることは、僕が本当にしたい議論とは少し別のことなんじゃないかという気がしている。

もちろん政治の問題にしろ、歴史認識の問題にしろ、大切な問題だ。だから僕もそういった問題について関心がないわけではないし、自分なりにあれこれと考えてみたりもする。確かに演劇は、というよりあらゆる表現行為はなんらかの意味で政治性を持つものであるし、歴史から完全に自由な場所で創作を行うことは不可能なのだから、そういった個別具体的な問題について時には踏み込んで議論をする機会があってもいい。だが、だからといって演劇作品が、あるいは劇作家協会のような演劇人の集団が、団体として積極的に政治性を獲得しようとすることには疑問がある。僕は、その有効性に対して根本的な部分で疑問を持っている。

端的に言えば、いわゆる「大きな物語」がすでに失効してしまったポストモダン状況を生きる現代人にとって、いや、すでにそういった状況の中で幾度となく態度変更を余儀なくされてきた現代人にとって、そういった「運動」はあまりに時代錯誤的な「大きな物語」への回帰を呼びかける声のように聞こえてしまうのではないだろうか。だとすれば、それはすでに有効性を失ってしまったものだ。もっとも、本人たちは自分たちこそが「大きな物語」≒「国家主義的右傾化」に対向するものである、という意識のもとに活動しているのかもしれないが。

もう少し噛み砕いて書こう。言うなれば、僕の行った批判はいくつかの点で対象をつかみ損なっていたのだと思う。たとえば、集団的自衛権の問題が語られる文脈の中で、日本が
いかに主権国家として主体的な安全保障環境を整備していくか? という本来議論されるべきであろう論点から遠く離れて、心情として反戦の気分を盛り上げたいと考える人たちがいた。そのことに対して、僕は細かな点を指摘して「それって論点ズレてない?」という種の批判を行ってしまったようなものだ。確かに、ズレてはいた。だが、おそらく論点がズレていることぐらいそれを主張している当の本人たちも自覚しているのではないだろうか。そしてそれがある種の「趣味の問題」にすぎないという諦念に至っている人も多いのではないだろうか。

「九条やめたら運が逃げますよ」の鼎談参加者に対して僕が抱いた違和感の本質は、その杜撰な議論の内実に対してではなく、どうしてそんなに「戦後民主主義」を信じることができちゃうんだろう? というその信仰の強度に対してのものだった。「九条を守ろう!」という主張もあっていいだろう。「新しい歴史教科書を作ろう!」という主張もあっていいだろう。でも、いずれにせよそんなに熱心にそれを信じるモチベーションが僕には無い。そのモチベーションの無さこそが僕の(というより「僕の世代の」といった方がいいのかもしれないが)、出発点であったように思う。

なにも僕は今更おなじみの価値相対主義を持ちだして「みんな違ってみんないい」などということを政治的な問題のレベルで主張するつもりはない。僕自身にしたってある立場を採用し、その都度、現実的な問題に決断を下し続けるべきだという「責任」を引き受けて生きてきた人間だ。価値観を宙吊りにしたままその不確定性のなかにしぶとく留まる、という抑制的な態度からは遠い場所で暮らしてきてしまった人間だ。「何らかの決断を下さざるをえない、たとえそれが根拠の薄弱なものであったとしても」というのが僕の感覚としては近い。だから
未だに「九条を守ろう!」というたぐいの言葉の下に劇作家が連帯/共闘できると夢想する感性そのものが、僕にとっては果てしなく遠く感じられる。

大雑把な議論で恐縮だが、「あらゆる価値観は相対化されてしまって何を信じるかはもはや個人の自由だ。ただ、カルトに走ってテロを起こすのはヤバいぜ」という問題意識からすでに20年近くが経とうとしている。その間、何らかの価値体系を復権させようとしたり、あるいは価値観を宙吊りにしたままで相対化の時代を乗り切っていく技術を磨いてみたり、様々な試行錯誤がなされてきたように思う。すでに現代においてはどんな態度をとっていようともそれがある種の恣意性を免れることは不可能であり、もはやそれは前提条件と言ってもいいだろう。

そういった状況の中で劇作家にまだ何か果たすべき役割があるとすれば、それは何らかの態度のその一類型をまざまざと提示してみせるとか、あるいは自分たちを取り巻く言説の有効性/無効性を看取し、その思想的根幹をもう一度掘り返してみるとか、なんだかそういった種類のことではないだろうか。今や、劇作家たちが合流できる地点を模索することはとてつもない困難を伴うし、その割に得られる成果は少ないだろう。だから思う。もはや演劇人の集う協会に特定の「性格」はいらない。割り切って、ツールとして存在していく道を模索するほうが、よっぽど存在意義は高まるんじゃないか。僕はそう感じる。


(※なぜコメント欄での稲富さんの指摘に正面から答えることができなかったのか、ようやく少しだけ書けた気がする)
 

なぜ「戯曲公開」なのか? ※追記版

  • 2014.07.01 Tuesday
  • 09:41


先日、アマヤドリの公式websiteにて広田淳一戯曲の公開ということを始めてみました。

「おお! これはなんか新しい試みだぞ!」なんて小躍りしていたら完全に「ままごと」柴幸男さんの「戯曲公開プロジェクト」の二番煎じになっているじゃないの! ということでがっかりしたり、「いや、むしろ考えが近い人がいてこれは喜ぶべきことだぞ!」なんて欣喜雀躍していたりしたわけなんですが、ともあれ、自分としてはどんな考えでこの企画を実行するに至ったのか、その経緯を説明したいと思います。もちろん「ままごと」さんのプロジェクトと僕らがやっていることはスタンスが多少違いますから、ここで僕の考えについて詳しく書いておくこともあながち無駄ではなかろうと思うのです。

きっかけは「悪と自由」という、2014年のアマヤドリの新作コンセプトについてあれこれ考えてみたことでした。その時僕は『自由について』(佐伯啓思)という「そのまんまやんけ!」ってなタイトルの本を読んでいたのですが、その時、ふと「アマヤドリの全作品の映像・テキストをWEBにあげたろか」という考えが浮かんできたのです。電波のしわざではありません。きっと自分の中にあった点と点とが、佐伯さんの展開する自由論によってようやく繋がったんでしょう。その後、映像公開についてはあれこれクリアしなければいけない問題があることがわかりましたのでそれはいったん諦めまして、まずは広田個人が著作権を持っている戯曲の公開に踏み切ることにいたしました。

ではなぜそんな考えに至ったのか? そのもっともポエティックな理由については劇団のwebsiteに書きましたので、ここではその戦略的な意図と妄想的なバックボーンについて書いてみたいと思います。最初にくれぐれも念を押しておきたいのですが、僕はこの戯曲公開という流れが他の劇作家さんに波及していくことを望んでいるわけではありません! 僕のように作・演出・主宰という形で演劇活動をしている人間もいれば、後期のイプセンがそうであったように劇作のみに専念して活動している方もいらっしゃるわけですから、自ずと、戯曲公開という行為が持つ意味、そのリスク、弊害は変わってくるでしょうから。


◆戦略的意図について◆


【僕たちは何を売ってきたか?】

「自由」についてあれこれ学ぶうちに、僕は現代における「自由」の本質が所有権・財産権と深い関わりがあることを知りました。王様や領主様から何かを借り受けるのではなく、自分たちがそれを所有しているという事実。これが「自由」のもっとも基本的な部分であることを知りました。……と、このあたりの話をすると話が無闇に長くなりますので簡潔に言います。僕は「いやー、自由って本当にいいものですね」という考えにまあ、至ったわけです。

所有権はその延長として、人々に商売の自由をもたらします。自分の判断で何かを売ったり、買ったりできること。これってすごく根本的なところで僕らの自由を支えてくれている権利です。独立があって自由がある。国でも個人でもその順番です。決して逆ではありません。で、考えた。いったい僕は何を売っているんだろう? と。

一口に演劇人と言ってみても演出の能力を売っている人、戯曲を書く能力を売っている人、演技する能力を売っている人、などなどその形式は多様です。僕に関しては演劇の公演を打ち、それに対して観客≒お客様にチケットを買っていただくことが経済上のメインの収入になっています。そして公演に関連して諸団体から助成をしていただいたり、あるいはグッズを販売してみたり、ワークショップを開いて参加料をいただいてみたりして、まあ、劇団の経済を回しているわけです。

上演戯曲の販売に関しては今までずっと行ってきました(今後も売るつもりです)。いわば戯曲は僕達に富をもたらしてくれる、重要なコンテンツなのであります。今年4月に行った『ぬれぎぬ』に際しては随分と多くの方に上演戯曲を購入していただきました。大変、ありがたい話です。なんせコピー用紙に印刷しただけの粗末なものだったわけですからねえ……。まさに作品の価値にお金を払っていただいたわけです。過去にはまた、自分の戯曲を気に入ってくださったいくつかの団体からお話をいただき、使用に際して上演料をいただいたこともありました。それも大切な僕の収入源です。

……ですがまあ、ものすごくぶっちゃけて言いますと、ここまでの人生で僕が戯曲のみによって稼いだ収入はごくごくわずかなものであるということも事実です。戯曲提供で上演料をいただいた経験は、片手で数えられるぐらいしかありません。つまり、僕の収入の本質は演劇公演に関してのものであって、戯曲によって得られるそれはあくまで二次的なものにすぎない、という現実があります。さらに言えば、僕はそれでいいと思っています。そりゃあ戯曲がバカ売れして大儲けできればうれしいですよ。なにせ僕は心の底からお金というものを欲しておりますので。だけどおそらく、そんなことは今後も多分起きないし、また、起きなくてもいいか、と自分も思ってしまっている。そんな経済感が僕には育ってきてしまっているのです。


【僕たちは何を届けたいのか?】

ところで、僕たちの劇団にはまだまだ国内でも公演を打てていない場所がたくさんあります。というより、ほとんど東京でしか公演を打てていないと言ったほうが正確でしょう。残念ながら日本全国をくまなく回るどころか、ほんの数カ所を回る力すら現在の僕らには無い。海外で公演を打つ手立ても目処も、今のところはぜんぜん無い。

たまに大阪や新潟の方などから「来てくださいよー、まだ観たことないんですよー」という嬉しいコメントをちょうだいしたりもするんですが、なにせ知らないんですから無闇にアマヤドリをゴリ押しするほどの情熱を持ち合わせている方もほとんどいないわけでして……。現状ではせいぜい公演のDVDでもお渡しして、少しでも僕らの活動に興味を持ってもらうぐらいのことしかできないんですが、なかなかどうして伝わらない。だって僕らの作っているものは「演劇」なんですからね。アマヤドリの活動を伝えるためにはやはり様々な場所に実際に行って、そこで公演を打つしかないでしょう。そうなんです。僕たちはやっぱり公演を届けたい。


【戯曲を「部分」として先行させる】

そこで考えた公演へ至るためのひとつの道が「戯曲公開」だったのです。まずは知っていただくことが大事なんじゃないか、と。そもそも演劇には構造的なジレンマがあります。すなわち「アマヤドリを知らないからアマヤドリを観に行かない。だからアマヤドリを知らない」という悪循環。だから最初の一回のハードルをなるべく低くしようとして今までも「タダ観でゴー!」なんて企画を継続してきたわけですが、それも関東圏の方ぐらいにしか効果が無い……。もちろんCoRich!舞台芸術のような全国の劇団の方が観てくださっているwebsiteもあるわけですし、地域での公演では大抵、様々な形で地元の方が宣伝に協力してくださるわけですが、それでもどうしても上記のジレンマからは逃れがたいものがある。

それを打破していくためのひとつの方法として「演劇」のパーツである戯曲を先発させてみよう! という考えに至ったのです。戯曲を稽古場で実際に読んでもらったり、うまくして上演してもらったりなんかすればですね、僕たちの作った「演劇」がDVDよりもずっと望ましい近い形でどこかの誰かに届くんじゃないかと思うのです。なにせそこでは生身の人間が「演劇」を立ち上げてくれているわけですからね。そのことはきっと作品の発信源である僕たちへの興味にも繋がるんじゃないかと思うんです。そりゃあ「なるほど、つまらん」と言われてしまえば元も子もないわけですが、それでも、戯曲の持つ宣伝/広告効果は、おそらく僕が現在得ている戯曲による収入によるそれよりも、はるかに大きな「利益」を劇団に、また僕個人にもたらしてくれるんじゃないだろうか……。この思いが僕を戯曲公開に踏み切らせた大きな要因です。だから僕はその戦略を選んだ。


◆妄想的バックボーンについて◆


【「無料」が破壊するもの】

現代ほど無料で多くの情報が手に入る時代はかつてなかったでしょう。僕たちはここ数十年でインターネットなんていうものを手に入れたわけですからね。今日では、著作権が切れた多くの文豪たちのすばらしいクオリティの作品が、なんと無料でダウンロードできて読めてしまうのです!(参考:青空文庫

もちろんそれは文学の世界に留まることではありません。音楽の分野でもSoundcloudなんてものがあって著名なアーティストから無名なアーティストまで、幅広く音源を公開しています。ここで気に入った楽曲をitunes storeで購入することもできるようになっていて、音楽で経済を回すための窓口としても機能しているのです。

さて。現在、違法も合法も含めてテキスト、音楽、動画、ゲームなど、さまざまなコンテンツが「無料」で手に入る世の中になりました。しっかり著作権によって保護をしなければ「知的財産権」なんて概念ごとあっという間にどこかに吹き飛んでしまうんじゃないかっていうぐらい、とんでもない勢いで「無料」のコンテンツが僕たちの周囲を取り巻いています。

その流れに便乗して時代に媚びて、本来お金をとってしかるべきである戯曲という作品を「無料」の渦の中に放り込んでしまっていいのか? そういった危惧もあるでしょう。僕が上演の権利まで含めて「無料」としたことによって、多くの他の劇作家たちの戯曲の価値をも貶めてしまう危険性もあるでしょう。「ああ、戯曲ってタダなのね」と思われてしまっては、戯曲は売れなくなってしまいますし、上演料も支払わないのが当たり前になってしまいます。そうなれば、普通に上演料を取る方が「ケチ」などと言われかねない……。それは間違いなく劇作家の生活を困窮させ、ひいては日本の演劇界に打撃を与えることになるでしょう。僕の行動はそういった危険性を孕んでいます。そのことは一応、自覚しているつもりです。


【「無料」がもたらすもの】

僕は未来のことについて妄想するのが好きなので、執筆の際にもそれ以外の時にもいろんなことを考えてみるのです。いったい世界はこれからどうなっていくんだろう? 人類ってどうなるの? 宇宙って、終わるの? とかね。妄想は尽きません。

僕がアホなりに未来のことを想像してみるに、おそらく今後、戯曲の上演料で劇作家が食べていくことはますます難しい世の中になっていくように思います。本が売れない、CDが売れない、新聞が売れない、そういった現象が暗示しているのは「情報」をそのままの形で商品と見なす時代の終焉が近づいているんじゃないか、ということです。それをパッケージングして、なんらかの価値を付与する手続きを踏まなければ商品にはならない、そんな時代になってきているのではないでしょうか。まあ、ここでいきなりヴァルター・ベンヤミンだとかマクルーハンだとか言い出してもいいんでしょうが、そんな学術的な話でなくても、ここ数年の日本のオリコンチャートが誰によって上位を独占されているか、その戦略とは何か、と考えていただければご理解いただけるんじゃないかと思います。多くの人がコピー可能な情報には商品としての価値を見出しにくくなっている、現代ってのはそんな時代なんでしょうし、未来はきっと、もっとそんな感じなんじゃないかと思うのです。

でも「演劇」は廃れません。4Kテレビが安価に手に入るようになればハイビジョンテレビは廃れるでしょうし、もはやMDとかVHSなんてものはその役割を終えてしまったようにも思えますが、ええ、大丈夫です。「演劇」はどんな高性能カメラよりも高精細ですし、何よりも、空間と時間を扱う芸術なのですからそれは容易にはコピーされません。たとえば公演映像を動画サイトにアップしても(「範宙遊泳」さんが一作品まるごとアップされてましたね)、時間と空間の共有を前提として創りだされる作品の価値は一向に崩されません。だから僕は、むしろこれからはますます「演劇」の時代なんじゃないかって思っているぐらいです。

ただ、3D映画とプロジェクション・マッピングとアンドロイド技術が融合するような形での「映像表現」が確立されて、技術面でついにいわゆる演劇というものの特権が脅かされる時が来るとは思います。私たちの認知能力をもってしては、もはや実際の俳優とアンドロイドとの区別がつかなくなる日もきっと来るでしょう。そうそう、先日、チューリング・テストに合格(?)したプログラムがついに誕生したとかいう話も聞きますしね。観ている人をもらい泣きさせるような、すばらしい演技をするアンドロイドも遅かれ早かれ登場します。その時、「演劇」に何が起きるのか? それはまだわかりません。ワクワクしますが、少なくとも、ここ5年でそういった時代が来ることはないでしょうから今はそのことを脇に置きましょう。


とにかく、人間の持つ複製技術はどんどん進化し、複製可能な情報の商品価値はどんどん失われていってしまっている。それが僕の現状認識です。


【戯曲の消費期限】

劇作家の戯曲にはもちろん固有の著作権があります。ですがそれも数十年を経てしまえば青空文庫に無料で陳列される時が来ます。商品としての寿命はそこまでです。もちろん物理ベースの情報への需要、つまり本という形式の持つ商品価値はそう簡単には消え去らないでしょうから、戯曲を買う、人はいなくならないと思いますが……。

さて。以上のように戯曲が単独で商品価値を持つ時間は短く、そして無料の戯曲は年々増えていく。そんな状況があります。劇作家が上演料を得るためには「それを払ってでも上演したい」と判断されなければいけせまん。当然、そういった高い商品価値を持つ戯曲は今も一定数ありますし、今後もなくなることはないでしょう。

けれど一方で「本当は誰それさんの戯曲をやってみたいんだけど予算の少ない公演だし、今回は無料の戯曲の中から選ぼう!」と判断する演劇人も多いのではないでしょうか。しかも、そういった人たちの選択肢は年々広がっていく。青空文庫が充実すればするほど「無料」の棚はどんどん豊かになっていくわけですから。その中で使用料ありの戯曲をどれだけの人たちが上演できる立場にあるのか? あるいは、そのような状況の中で勝ち抜けるだけの商品価値を自分の戯曲が本当に持っているのか? ……うーん、怪しい。かなり、怪しい。

僕だってそりゃ自分の作品がつまらないとは思っていませんが、並み居る歴代の劇作家と並べてみて自分の戯曲がそれほど特別な価値を持てるとも簡単には思えない。おそらく、僕の作品が著作権を失効して無料の棚に並ぶころには、僕の作品はその価値の大半を失ってしまっていることでしょう。
そもそも日本には古典を上演するという気風がヨーロッパほどには育っていないようですから、古典作品になってしまった自分の作品はその点でも分が悪い。

僕が生きている間は使用料の問題で無料作品との価格競争に破れ、僕が死んでしばらく経ってからは時代の風雪に耐える強度が無ければ完全に忘れ去られてしまう……。これはしんどい戦いです。しかも僕が生きている間に存在する問題は何も金銭だけのことではなく、その交渉過程の労力なども含めた諸問題をクリアした上で上演しなければいけないので、必然的にある程度以上の規模の公演でしか取り上げられないことが予想されます。要するに、全国のさまざまな場所で行われている公演のうちで劇作家に対して戯曲使用料を支払う余力のあるカンパニーはごくわずかだろうということです。


冷静に考えてみて、僕の作品が一番どの時代に対してビビットな価値を持っているかと言えば、今、この時代でしょう。「俺の全盛期は今なんだよ!」てなもんです。だから僕は、僕の戯曲を今、上演してもらいたい。それはアーティストとしてのエゴです。迷惑に感じる方もいらっしゃるでしょう。そのための方法が「無料公開」しかないの? とおっしゃる方もいるでしょう。それでも、僕だって僕の生活の大半を賭けて「演劇」を作り、戯曲を書いているわけですからね、なんとしても自分の作品をより多くの人に届けたいわけですよ。もちろん「無料」なんかじゃなくて、そりゃあ儲けたいですよ。けれども、それよりもなお劇作家としての自分には意地汚くも獲得したい「利益」があるようです。うう、難しい……。戯曲の使用料を取ることはなんらやましいことだとは思いませんよ! むしろ当然のことですから、そこは誤解しないでくださいね。

とにかく僕は、今、多くの人へ届けるために戯曲の公開という戦略を選び、上演料も無料でよい、ということを選びました。そうです、だからもちろん「上演料を払いたい!」という方の意志を退けるなんて、そんな失礼なことはいたしません。お金を取るだけの戯曲を書いている、という自負だってあります。ま、しかし……そのお金は本当に僕が受け取るべきお金か? という疑問もあるのですがね。それを次に書きましょう。ひとまず、戯曲を単独で売っていくことはビジネスモデルとしてもはや成立しないのではないか? そ
んな予感が僕の妄想的なバックボーンとでも言うべき、この企画を実行に移した理由です。


【誰にお金が行き渡るべきか?】

僕は劇作家です。演出家でもありますし、劇団主宰者でもありますし、合同会社プランプルの代表社員でもあります。ですが、何よりもまず、劇作家でありたいと願っている人間です。ですから本来ならば劇作家が劇作を通じて得られる利益をこそ最大化したいという思いがあるのです。

ですが演劇創作の現実を多少なりとも知っている人間として、演劇の現場で誰が一番お金をもらっていないのかについてもよく理解しているつもりです。ええ、俳優です。「演劇」というコンテンツの核心でありながら、もっともその活動が経済に結びつかないのが俳優なのです。これは大変奇妙なことですが、特に小劇場演劇においてはゆるぎない事実と言ってよいでしょう。さて、ここで思いっきりいい人ぶってキレイ事を言いますが、僕は自分の戯曲に使用料を払って俳優にボランティア出演をさせるぐらいなら、そのお金は俳優にやってくれ! と言いたい。だって僕はその「演劇」が立ち上がる現場にいないんだもの。そりゃ、僕も受け取っていいと思うけどさ、それよりもっと先に受け取るべき人がいるでしょうよ、というね。

俳優がお金をもらえない。これは僕も常に何度も歯がゆい思いをしてきた演劇界の大きな問題です。なんとかならないか、と思っても簡単な解決策は見つかりません。今まで僕も多数の俳優、劇団員たちが経済的な理由から辞めていくのを止められなかった人間です。だから「演劇」を立ち上げる現場でまさに戦っている俳優たちにこそ、少しでもギャラを支払って欲しい。そういった思いがあります。

「演劇」をお金に変える方法についてまじめに考える。それは卑しいことではないし、とても真っ当で、そう、なにより「自由」なことです。だから「演劇」の現場に一人でも多くの方に足を運んでいただき、現状ではとても複製不可能なこの芸術の持つ圧倒的な豊かさを体験していただきたいのです。そして、本当にいい「演劇」を作っている人間が経済的な理由でそれを辞めることが少しでも減ればいい。

僕のやっていることがむしろ劇作家の経済を壊すことであり、演劇人の自活を阻害するものであると判断したら、その時点で戯曲公開はやめます。僕も何が本当に正しいのか、時代がどっちに進んでいくのか、わかりません。でも、せっかく思いついたんだからやるだけやってみよう。これが現在の僕の考えです。

ふー。最後まで読んでくださったあなたは本当にえらい! どうもありがとう。

 

「九条やめたら運が逃げますよ」の何が問題か。※さらに改訂版

  • 2014.06.19 Thursday
  • 02:51


一昨日、僕はtwitterにおいて劇作家協会のwebsiteに掲載されている鼎談、「九条やめたら運が逃げますよ」について「ひでえ」という言葉を使って批判した。それはあまりにも言葉足らずの批判であったし、また、個人的にもお世話になった協会の先輩方を批判する言葉としては、あまりにも中途半端なものに留まってしまっていた。僕はそのことを反省し、どうせなら正面から批判したほうが何かの足しにはなるだろうと考え、改めて下記の文章を書くことにした(※後日追記:しかし結果としては「正面から」の批判にはなっていない。本当に「正面から」この問題を議論するならば、僕は僕の立場を明確にした上で、その政治的主張の正当性を述べる必要があるだろう。残念ながら今の僕にはその能力が無い)。


はじめに断っておくが、僕が批判をするこのタイミングがすでに自分本位の勝手なものであるのかもしれない。そもそも劇作家協会が集団的自衛権や特定秘密保護法に対して、団体として反対の立場を鮮明にする上では何らかの形で会員に意見を募るような機会があったのかもしれないが、僕はあまり丁寧に会報やらwebsiteやらをチェックしていなかったので、もしかすると内部で意見を求められた際には何も言わず、いざそれが公になると公然と批判を展開する……というようなある種無責任な行動を取ってしまっているのかもしれない。いや、もしかするとそんな機会は無かったのかもしれない。わからない。が、今はそういった事実確認よりも、すでに半端な形であれ批判をしたのであるから、せめてそれをまっとうな議論へと発展させることをもって自分の責任を果たそうと思う。


(※後日追記:それにしても劇作家協会はこの種の声明に対して意思を示す必要があるのだろうか? 協会では代議制が取られており、協会員の付託を受けた理事たちが判断したのだから協会員がそれに従うのは当然のことではあるのだろうが、この種の政治的活動をするために自分は劇作家協会に参加しているわけではない。協会員である、ということはこの種の政治声明に参加することを意味しているのか否か、僕の下記の文章が提起する問題のうちで最大のものはおそらくそのことだろう。)



えー、というようなわけでですね、なんだかまたとてつもなく硬い記事を書くことになりました。別に法学の知識も政治学の知識も無い素人の人間の書く文章ですので、これを読んでも大して参考になる部分はないかもしれませんが、予めご了承ください。



 

まず、冒頭にここで取り上げる鼎談のリンクを貼っておこう。言及する部分に関してはなるべく長めに引用をするつもりだが、どうしても広田にとって都合のよい引用になるだろうから、まずは鼎談の全文を読んでいただき、鼎談参加者の真意をノーカットで把握していただいた上で、下記の批判に目を通していただきたい。

 

「九条やめたら運が逃げますよ」



さて。僕がこの鼎談の 何に対して反論をしたいのか? あれこれあるが、論点を絞ろう。まずはここ、
 

沢田 北朝鮮の脅威・中国の脅威って言うけど、そんなお隣同士でね、昔から仲良かったわけや。そりゃもちろん喧嘩もする。けど夫婦だって恋人同士だって喧嘩はする。でも、あきらめたりとか、いろんなことしながら仲直りして、しゃあないなって言いながら何とかやってる。それで良くない? よう考えたら変える必要なんか一つもないやん。テポドン飛んでくるったって、そんなアホなことやらへん。朝鮮総連の仲間をね、金づるを絶対殺さへんと。それは中国だってそう。

マキノ 改憲論者の人たちの、ちょっとまやかしなんじゃないかなって思うのは、中国の脅威とか北朝鮮・韓国の脅威とか、いわゆる領海や領土の問題で揉めてるようなことが、改憲すればなくなるっていうふうにイメージ操作してる気がするのね。じゃあ日本が自衛隊を国防軍っていう名称に変えたら、韓国とか中国とか恐れ入って引き下がるのかっていったら絶対そんなことない。必ずもっと揉めるし、もっとキツイ状況になるだろうし。

 


この部分に見られるある種の「楽観」について、僕は違和感を覚える。北朝鮮による拉致だって十分「そんなアホなこと」だと思うのだが、現に彼らはやった。旅客機をハイジャックしてビルに突っ込むことだって「そんなアホなことやらへん」と多くの人が思っていたのに、それは起きた。僕は思う。常に「脅威」は現実的に現在進行形で存在していると考えるべきではないだろうか? もちろん改憲や集団的自衛権行使容認でそれらの「脅威」がすっかり解消されるとは思わない。ただ、「想定の範囲外」では守れない命があることを我々はすでに知っているし、ウイグルでもチベットでも、またシリアでもイラクでも、「そんなアホなこと」が今日も続いている。「脅威」は、ある。まずはそういった現状認識を確認したい。


さて。安全保障においては、軍事力のバランスが崩れた時に軍事行動が起こるというのは一つの常識だろう。だから平和を守るためには、誰にも「勝てそうだぞ」と思わせないことが大切なのではないだろうか。つまり問題は、何が有功な備えなのか? ということであって「そんなアホなこと」として現実の「脅威」を一蹴することではないはずだ。しかるに、この鼎談を通じて現実の「脅威」について、また、その対処についてほとんど何も議論されていないのは奇妙なことだ。自宅の塀に鉄線を張り巡らせる家主の目的は、誰かにケガをさせることではない。集団的自衛権の行使容認には、安全保障の選択肢を広げる、自由度を高める、という側面もあるのではないか。


もちろんリスクもある。マキノさんがおっしゃるように、日本が軍事的プレゼンスを高めることによって周辺国と「もっと揉める」という、いわゆる「安全保障のジレンマ」の問題もあるだろう。だが、たとえば自衛隊を解散するとか、米軍が日本から即座に撤退するとかして日本が抑止力を失い、周辺国との軍事バランスが大きく崩れるような状況に至れば、別の角度から「揉める」危険性が高まることもまた事実だ。米軍が撤退した後のフィリピンでどんな問題が起きたか、そういった事実も頭のどこかには置いておかなければいけない。そりゃあ、無闇に軍事費を拡大していくことには僕だって大反対だ。しかし、考えて欲しい。この十年、どこの国がそういったことを実行してきたのか? 答えは明らかだ。


 

 

沢田  ピースボートやってて、もう意気盛んで。(議員の)年数が長くない人がね、ポロっと「商売」って言いましたから。で、その時 『我が窮状』の歌詞を渡したんだけどね、うまいこといったら誰かにコピーして渡してくれるのかなって思ったら、何もないんですよね。だから一枚損したなあと(笑)。

 いや、それくらいにこう、あの人でさえね、おまえまだそれ言うたらあかんやろって感じの人でも「商売」言うんやから、安倍さんとか世襲の人は、もうお家の仕事ですよ。そういう感覚で政治家になる彼らは、もうロボットだと僕なんかは思う。小泉進次郎でしたっけ? 彼にしたって、まあ今はイケメンやからちやほやされてるかもしれないけど、中身は同じことでしょう。

 

 

世の中には世襲でイケメンであるにもかかわらず勤勉な人間もいるのだ、という厳しい現実を我々は受け入れなければならない。また、「商売」だと思って仕事をしている議員がいても僕は問題ないと思う。僕だって演劇という「商売」をしているからだ。公務員が無私の公僕でなければいけない、とも思わない。人類のために骨身を削って働く「商人」もいれば、自分のためだけに働く「公務員」もいるだろう。問うべきは実力。沢田さんは動機の純粋さを議員には求めるのにご自身は「一枚損した」という感覚で活動していることを堂々と公言している。これはダブルスタンダードと言わざるを得ない。(憶測だが、彼女は関西のノリで「仕事≒商売」てな言葉の使い方をしただけなんじゃないか?)

 

 

マキノ 日本って国家自体が、昔の言い方で言うと一等国になるとかね、そういう必要は全然ないように思うんです。あと、日本人は基本的に疎まれてるというか、あんまり好かれてないっていうのをもっと知るべきだよね。だって黄禍論の時もそうだったけど、第一次大戦終わった時のパリ講和会議で、人種差別撤廃を訴えたの日本だけでしょ。で、総スカンじゃないですか

 たまに、こう一握りの、野球選手とかノーベル賞とるような科学者とか、あるいは世界的な芸術家なんかが出てね。あと日本の工業技術はすごいねとか、町工場の技術はすごいねとか、世界に比肩し得るような優れたものがいくつかあって。もうそれだけでいいんじゃないかと思うんだよな。国全体の実力として、世界にのしていこうとか世界に貢献しようとかって思わない方がいい。常任理事国とか、もう絶対にならない方がいい。そんなに好かれてないし、この先も絶対そんなに好かれない。今はまあ、同盟国とはいうものの、アメリカの言うことをなんでもきく国ってのが実情なわけで。

永井  日本って海外から見れば絶対にアメリカの属国で、尊敬されてないのよね。経済大国になったから、何となく自分たちは一等国の気がしてるけど、文化的に民度が高いと思われてるわけじゃないから。

マキノ 経済もだんだん衰退してくるので、「できる範囲でがんばって行きましょう」くらいの方がねえ。そんなこと言うと、若い奴には夢がない話になっちゃって可哀想なのかなあ。

沢田  いやいや。そういうことを言う人もたくさんいないと。僕ら、そういう役割をしないといけないんじゃないかと思う。

 

 
ここに関してはこんなにも認識が違うものなのかと率直に驚いた。どうしてこんなにも自己肯定感が低いのだろう……と言っては可哀想なのかもしれないが。確かに、今だって黄色人種に対する人種差別はあるだろう。でも僕は日本人が「基本的に疎まれてる」とは思わないし、「尊敬されてない」とも、「文化的に民度が高いと思われてるわけじゃない」とも思わない。そりゃ「特別崇高で気高い、とてつもなく美しい国だ」とは言わないが、まあべつに、普通なんじゃないかなあ。加えて、パリ講話会議で人種差別撤廃を訴えたのはどう考えても日本の誇っていい歴史だと思うし、それを否定した国際連盟にとって恥ずべき歴史だろう。確かに当時は「総スカン」だったのかもしれないが、現在、その理念の正しさをどの国も否定できはしない。

 
 

マキノ そこまではないと思うな。よくね、「日米安全保障条約の同盟国であるところのアメリカの艦船が目の前で攻撃されてても、イージス艦からは応戦できないんですよ?」ってたとえ話をする論者がいる。それは僕、個別法でやったらいいと思う。「そういうことが起こった場合は応戦します」とすればいいだけで。活動中に攻撃されてやむなく応戦するっていう限定的な戦闘と、そこから集団的自衛権にものすごく一足飛びに飛ばして、攻撃を受けたから報復のためにその国を攻撃しに行きますっていうのは、「それ全然別の話だから!」と思うのね。だからそのたとえ話を出す時点でもう、「あ、まやかしがある!」ってすごく思うんだけど。

 
 

ここが最も法的に理解が難しかった部分だ。僕の理解では「アメリカの艦船が目の前で攻撃」された際に、「イージス艦から」「応戦」するための「個別法」を作るためには集団的自衛権の行使容認が必須になるはずなのだが……。自国が直接攻撃を受けていないにも関わらず個別的自衛権を発動できる……個別法? そんなものが法のロジックとしては作れるのだろうか? いや、もし作れたとしても、それって実質的には集団的自衛権の行使容認なのではないかしら……。


そして明らかな誤りがある点を指摘しておこう。「攻撃を受けたから報復のためにその国を攻撃しに行きます」ということは集団的自衛権の範疇を明らかに越えているので、少なくとも法的にはそのような行動は許されていない(参照:下記リンク)。集団的自衛権で認められているのはあくまでも攻撃の「阻止」であって、「報復」「攻撃」などの行為は認められていない。それらは一般的に言って国際法の規定する「自衛権」の範疇を越えている。よってここでマキノさんが心配しているような事態は集団的自衛権行使容認の議論とは切り離して考えるべきものであり、まさに「それ全然別の話だから!」といえる。

 

上記関連の国会答弁

 

 

マキノ あとね、言葉に酔い易いっていうのもあるから、「かつて平和憲法というものを護持して、そこに殉じて滅んでいった立派な国があった」っていうなら、もうそれで充分じゃないかと、僕なんかはそんなふうに思っちゃう(笑)。「そんな国を攻撃してくるような世界なら、それは私たちが生きるに値しない世界だ」ぐらいなことをね、格好いいと思っちゃうんだけどね。

 現実にはそんな夢想は相手にされなくて、「世界の国際政治の舞台ではこういうことが起こってます。こんなふうにして日本の国益は損なわれてます。だからこうしましょう」っていう改憲派の論法に押されちゃうと思うんだけど。でも本当にリアルなこと言うと、国際政治に参加していけばいくほど、日本はきっと嫌われるしさ。で、九条の歯止めなくしちゃったら、いざという時には本当にやるからね。もし何か酷い目に遭ったら、本当に自分たちが滅びるまでトコトン行っちゃう人たちなんだから。

 だから、強い軍隊を持っておくっていうのは別にいいことだと僕は思うのね。吉田茂の時代みたいに軽武装でいいとは思わない。その時代に即して、最新鋭の方がいいと思う。それで恐れられてればいいと思う。練度も高い方がいいと思う。で、自衛官も誇り高い方がいいと思ってるんだけど、でもそれは国内向けには軍隊ではないっていう。「日本のは自衛隊ですから」っていう、ダブルスタンダードでいい。そういうふうにして少なくとも戦後六十何年? 再来年で七十年ですか、無事にやってきたんだもの。そんな期間戦争しなかった国は、もう平和国家として誇っていいわけだから。変える必要は全くない。

 

 

言うまでもなく国家の果たすべき最高の役割は、国民の生命・財産を守ることである。だから「国民の生命・財産」と「平和憲法」と、どちらを優先して守るべきかは国家にとって考えるまでもない問題だ。これはマキノさんも自分が言葉に酔ってしまう傾向があって危険だ、という文脈でおっしゃっているんだろうから、まさか「国民の生命・財産」よりも「平和憲法」を守れ! とは思っていらっしゃらないと思う。続く文章がそれを証明している。
 

ただ、もしも「平和憲法」を守るために日本が滅んだ場合、「立派な国があった」という形で歴史が綴られる可能性は絶無に等しい。日本を滅ぼしたあとでその国は必ずあることないこと日本の罪を巨大なものとしてでっちあげ、「まあ、そんな酷い国なら滅ぼされてもしかたないか」という方向に国際世論を導くべく広報活動を行うだろう。その際、日本はそれに対して一切、反論することができない。滅んでいるから……。


ここでマキノさんがおっしゃっている自衛隊肯定論には少し注意が必要だろう。おそらく、マキノさんの言う「ダブルスタンダードでいい」という意見の底には、自衛隊の存在そのものは違憲ではない、という解釈が流れているからだ。もちろん政府の公式見解としても現在、「自衛隊は憲法違反ではない」。では、その解釈はいつの段階で発生したものなのだろうか?


そもそも憲法九条には「陸海空軍、その他の戦力はこれを保持しない」とはっきり書いてある。たとえ自衛隊が「国防軍」とは呼称されない現在のような形であっても、普通に読めば、それが「その他の戦力」にすら該当しないと解釈するのはかなり苦しい。事実、かつての政府見解で吉田茂は「個別的自衛権の行使すら放棄する」というラディカルな立場を表明していたのだ。つまり、その時点の解釈では自衛隊は「違憲」であった可能性が高い。

のちに、その憲法解釈は時の政権によって幾度も変更されていった。「自衛権の行使は可能」(鳩山一郎)、「集団的自衛権の行使だって可能」(岸信介)、などといった形に。そういった「解釈改憲」によってはじめて「自衛隊は合憲」というマキノさんのような立場が成立するのではないだろうか。まあ、そのあとでさらに「やっぱり集団的自衛権は違憲」(田中角栄、鈴木善幸、これが現在の解釈)と変更が行われてきたので話はややこしいのだが……。



参考「安倍首相が甦らせる祖父、岸信介の憲法解釈」



僕も「まやかし」があるな、と感じるのは解釈改憲反対派の人も大抵「吉田茂の解釈に立ち返れ」とは主張しないし、ましてや「岸信介の解釈に立ち返れ」などとは決して言わないということだ。良いか悪いかは別にして、すでに過去において憲法解釈の変更、すわなち「解釈改憲」が行われたことは事実であり、我々はそのあとの日本を生きている。僕は今の日本を、「九条も人気があるし、自衛隊も人気があるから、両方アリってことにしちゃおう! ま、矛盾しているんだけどね」という状態なんじゃないかと思う。だから、これはちょっと恐ろしい話なんだが、矛盾を前提として成立しているのでこの話はすでに論理の話ではなくなりつつある。では何の話なのか。気分の話ではないだろうか。おそらく、そういったわけで気分に訴える言葉、「運が逃げますよ」なんてものが飛び出してきたのだろう(うーん。憲法の話はややこしい)。

 

引用部分後段のマキノさんには賛成できる部分も多いのだが、たった七十年のあいだ戦争が無かったからと言ってこれからも平和が続くと判断するのは早計だと僕は思う。第一、「平和」では無かった日本人もいるではないか。この七十年の間に拉致事件が起きて「国民の生命・財産」が奪われたのだ。そしてあの事件について長い間多くの日本人が、「そんなアホなことやらへん」と信じ込んでいたのだ。そのことを我々は痛切に反省しなければいけないし、被害者家族にとっては拉致が行われたその日から今日まで「平和」だった日などあるはずがないではないか。


これは「九条を守っていても運が悪い人はいる」などと言って済む問題ではあるまい。やはりこの鼎談はタイトルからしておかしい。安全保障の問題を「運」という言葉で語ることは危険極まりない。「そんな国を攻撃してくるような世界なら、それは私たちが生きるに値しない世界だ」なんてことを、たとえ冗談でも拉致被害者の前で言えるのだろうか? そんな言葉にうっとり酔いしれてしまうのは、「日本が攻められたら神風が吹く」と信じこんでいた幕末の公家とその精神において類縁であると断じざるを得ない。罪の無い若者や子どもが理由も無く拉致されて、それでも絶対に助けに行かない「覚悟」なんてものが本当にあるのか? 「運」よく拉致されなかった我々は、そのことをこそ自らに問うてみる必要があるだろう。まだしも犠牲になるのが自分であれば、それに「殉じて」諦めがつく人もいるだろう。しかし、誰も家族や友人に対しては、愛する人に対しては、そんな「覚悟」を強いることはできない、いや、したくないのではないだろうか。それでも、そんな場合でも戦争を思いとどまれるか? その時、万全の準備をしてきたと言えるのか? 問われているのはそういった問題ではないだろうか。


「脅威」は常にあると考えるべきだし、状況は刻々と変化していくと認識すべきだろう。何が最善かは誰にもわからない。その中で、少しでもマシな選択ができるように、絶対に戦争が起きないように、現実的な方法をみんなでしぶとく考えていくしかない。僕はそう思う。





(※後日追記)

コメント欄であった指摘について、部分的にではありますが回答します。「件の対談中もっとも重要な論点」とコメントを書いてくださった稲富さんが指摘することに僕も賛成だからです。ただ、なかなか回答するのは難しく、ちょっと曖昧な返答になっていることをご容赦ください。


 

>永井 安倍さんは官房長官だった06年に、「北朝鮮のミサイル基地をたたくことも、法律上の問題としては自衛権の範囲内」って言ったことがある。ブッシュがイラクに攻め入ったのは、「防衛のための先制攻撃」って口実でしたもんね。先制攻撃したら防衛じゃないだろって規範を、ブッシュが破っちゃったわけじゃないですか。安倍さんの発言はそれに乗じたんだと思う。(以上、鼎談本文より引用)

>永井氏は──おそらく「悪の枢軸国」としての北朝鮮からの連想で──イラク戦争における「先制的自衛権」を引き合いに出していますが、集団的自衛権の問題の文脈では、その前の「攻撃を受けたから報復のためにその国を攻撃しに行きます」というマキノノゾミ氏の発言と「ブッシュ大統領」の組合せからして、2001年の9.11以降のアフガニスタン紛争が想起されるべきでしょう。当の紛争では、テロ攻撃に対する武力行使が自衛権の発動として正当化されるかどうか、またアメリカと共同でアフガニスタンを攻撃することが集団的自衛権のもとに正当化され得るかどうかが問題となりましたが、「積極的平和主義」を掲げ、集団安全保障に基づく武力行使まで視野に入れている安倍政権下の日本でも、これはまさに喫緊の論点となっていると言えます。(以上、稲富さんのコメントより引用)



このあたりは僕も正確な引用ができないので恐縮ですが……。まず、僕はそもそもアメリカのアフガニスタン、およびイラクへの攻撃はどちらもまったく正当性を欠いた行為で、アメリカという国家の行動としてのみ見た場合にも間違っていたと思います。加えて、日本を含めた複数の国家があの戦争に加担してしまったことも(日本は「復興支援」という形ではあったが)間違いだったと考えています。しかし、僕は当時そういった認識を持っていなかった。なんだか奇妙な論理のねじれを感じてはいたのですが、ビン・ラディンを掃討することにはある種の正当性もあるのではないかと考えてしまっていた。イラク戦争のわけのわからなさに至ってようやくこれはおかしいと思ったような有り様です。よってこれに関しては偉そうなことは何も言えません。ですが、その後の両国の様子などを見るにつけ、ああいった行動を今後は厳に慎まなければならないと考えています。

そのことを前提とした上で、上記の問題と件の安倍答弁とは切り離して考える必要があるのではないかと思います。問題の安倍答弁がなされた06年といえば、まさに北朝鮮が核実験を行った年であり、その数年前からずっとかの国の核開発疑惑を巡っての激しい応酬が続いていた時期ではなかったでしょうか。僕の認識では、もし仮に北朝鮮が核弾頭を搭載したテポドンやらノドンやらを発射することになり、それが複数の弾頭による一斉発射という形を取った場合には、それに対しての有功な防衛手段を日本は持っていないのではないでしょうか。
あの当時、いや、現在もだと思いますが、日米のイージス艦、あるいは航空自衛隊、陸上自衛隊ペトリオットPAC−3を使用しての弾道ミサイル防衛システムがあるとはいえ、複数一斉発射のミサイルを残らず全弾撃ち落とせるという確証は無い。これが現実ではないでしょうか。

北朝鮮が核開発を進展させたことによって、それ以後の日本は核攻撃の脅威を想定しなければならないという非常に緊張感の高まった状況に追い込まれてしまったと言えます。言い換えればそれは、複数弾頭による発射準備が進められていることを確認した段階で相手国のミサイル基地を叩かなければ、現実的な防衛の最終手段を失ってしまう、ということを意味しているのではないでしょうか。おそらく、件の安倍発言はそういった危機に対応する必要を迫られている中での、そんな文脈での発言ではなかったでしょうか。

あの当時の安倍発言をアフガニスタン紛争やイラク戦争と関連づける永井さんのような見方があることは、ある意味では当然と言えます。現実に小泉首相率いる自民党は対テロ戦争というイベントにかなり前のめりになってしまったのですから、今後、同様の事態が発生した際にも同じような判断しかできないのではないか? そういった疑念は当然でしょう。ですが一方で、件の安倍発言にはそれを出さなければいけない状況もまた存在していたように思うのです。


日本の掲げる「専守防衛」は、言うなれば「一発は殴らせてやる」という戦略でしょう。ですが、万が一、弾道ミサイル防衛システムによっても阻止できなかった弾道の中に核が含まれていれば、それこそ最悪の事態を引き起こしてしまいかねないわけです要するに「一発殴られたらすべてがおしまい」になってしまう危険が生じた。したがって核抑止力を持たない日本としては、核武装をしてしまった隣国に対して、せめてそういった発言をするという形ででも牽制を加えておく必要があったのだろうと思います。そしてその選択は、日本も負けじと核開発を進める、という選択よりはかなりマシなものではなかったかと僕は思っています。ですから、そういった危機的状況の中での抑止力の拡大として、件の安倍発言には擁護されるべき点があると考えていますし、それを対テロ戦争への便乗とのみ解釈してしまってはいけないと思います。その懸念にも妥当性があることは認めますが、やはりあの発言をさぜるを得ない場所に日本は追い込まれてしまった、そんな見方もあってしかるべきでしょう。

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